旅日記から(明治四十二年)
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)艫《とも》のほうでは

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大部分|剃《そ》って

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)徐家※[#「さんずい+(匚<隹)」、第4水準2−79−7]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)立派な顔をしゃくって 〔Glu:ckliche Reise !〕 などと言った。
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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     一 シャンハイ

四月一日
 朝のうちには緑色をしていた海がだんだんに黄みを帯びて来ておしまいにはまっ黄色くなってしまった。船の歩みはのろくなった。艫《とも》のほうでは引っ切りなしに測深機を投げて船あしをさぐっている。とうとう船が止まった。推進機でかきまぜた泥水《どろみず》が恐ろしく大きな渦《うず》を作って潮に流されて行く。右舷《うげん》に遠くねずみ色に低い陸地が見える。
 日本から根気よく船について来た鴎《かもめ》の数がだんだんに減ってけさはわずかに二三羽ぐらいになっていたが、いつのまにかまた数がふえている。これはたぶんシナの鴎だろう。
四月二日
 呉淞《ウースン》で碇泊《ていはく》している。両岸は目の届く限り平坦《へいたん》で、どこにも山らしいものは見えない。
 シナ人の乞食《こじき》が小船でやって来て長い竿《さお》の先に網を付けたのを甲板へさし出す。小船の苫屋根《とまやね》は竹で編んだ円頂で黒くすすけている。艫に大きな飯たき釜《がま》をすえ、たきたての飯を櫃《ひつ》につめているのもある。その飯の色のまっ白なのが妙に目についてしようがなかった。そしてどういうものか悲しいようなさびしいような心持ちを起こさせた。
 テンダーに乗って江をさかのぼる。朱や緑で塗り立てたジャンクがたくさんに通る。両岸の陸地にはところどころに柳が芽を吹き畑にも麦の緑が美しい。ペンク氏は「どこかエルベ河畔に似ている」と言う。……
 ……宿の小僧に連れられて電車で徐家※[#「さんずい+(匚<隹)」、第4水準2−79−7]《ジカウェイ》の測候所を見に行く。郊外へ出ると麦の緑に菜の花盛りでそら豆も咲いている。百姓屋の庭に、青い服を着て坊主頭に豚の尾をたらした小児が羊を繩《なわ》でひいて遊んでいる。道ばたにところどころ土饅頭《どまんじゅう》があって、そのそばに煉瓦《れんが》を三尺ぐらいの高さに長方形に積んだ低い家のような形をしたものがある。墓場だと小僧が言う。
 測候所では二時に来いというからそれまで近所を見てあるく。向こう側にジェスウィトの寺院がある。僧院の廊下へはいって見ると、頭を大部分|剃《そ》って頂上に一握りだけ逆立った毛を残した、そして関羽《かんう》のような顔をした男が腕組みをしてコックリコックリと廊下を歩いている。黙っておこったような顔をしてわき目もふらず歩いて行ってまた引き返して来る。……異国へ来たという事実がしみじみ腹の中へしみ込んだ。
 寺院の鐘が晴れやかな旋律で鳴り響いた。会堂の窓からのぞいて見ると若いのや年取ったのやおおぜいのシナの婦人がみんなひざまずいてそしてからだを揺り動かして拍子をとりながら何かうたっている。
 道ばたで薄ぎたないシナ人がおおぜい花崗石《みかげいし》を細かく砕いて篩《ふるい》で選《よ》り分けている。雨が少し降って来た。柳のある土手へ白堊塗《はくあぬ》りのそり橋がかかってその下に文人画の小船がもやっていた。なんだか落ち着いたいい心持ちになる。……
 夜|福州路《ふくしゅうろ》の芝居を見に行った。恐ろしく美々しい衣装を着た役者がおおぜいではげしい立ち回りをやったり、甲高《かんだか》い悲しい声で歌ったりした。囃《はやし》の楽器の音が耳の痛くなるほど騒がしかった。ふたをした茶わんに茶を入れて持って来た。熱湯で湿した顔ふきを持って来た。……少しセンチメンタルになる。
 帰りに四馬路《スマロ》という道を歩く。油絵の額を店に並べて、美しく化粧をした童女の並んでいる家がところどころにある。みんな娼楼《しょうろう》だという。芸妓《げいぎ》が輿《こし》に乗って美しい扇を開いて胸にかざしたのが通る。輿をささえる長い棒がじわじわしなっていた。活動写真の看板に「電光彩戯」と書いてある。
四月三日
 電車で愚園《ぐえん》に行く。雨に湿った園内は人影まれで静かである。立ち木の枝に鴉《からす》の巣がところどころのっかっている。裏のほうでゴロゴロと板の上を何かころがすよう
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