penis が壁から突き出ていた。大尉夫人だけはここでひとり一行から別れて向こうの辻《つじ》でわれわれを待ち合わせるように取り計らわれた。街路の人道から入り口へ踏み込むとすぐ右側に石のベンチのようなものがいくつか並んでいるだけで、狭い低い暗い部屋《へや》というだけであった。よく見ると天井に近く壁を取り巻いてさまざまの壁画が描かれてあった。何十いくつとかの verschiedene Stellungen を示したものだとハース氏が説明して聞かした。青や朱や黄の顔料の色の美しいあざやかさと、古雅な素朴《そぼく》な筆致とは思いのほかのものであった。そこには少しもある暗い恐ろしさがなかった。
少し喘息《ぜんそく》やみらしい案内者が No time, Sir ! と追い立てるので、フォーラムの柱の列も陳列館《ミュゼオ》の中も落ち着いて見る暇はなかった。陳列館には二千年前の苦悶《くもん》の姿をそのままにとどめた死骸《しがい》の化石もあったが、それは悲惨の感じを強く動かすにはあまりにほんとうの石になり過ぎているように思われた。それよりはむしろ、半ば黒焦げになった一握りの麦粒のほうがはるかに強く人の心を遠い昔の恐ろしい現実に引き寄せるように思われた。
火山の名をつけた旗亭《きてい》で昼飯を食った。卓上に出て来た葡萄酒《ぶどうしゅ》の名もやはり同じ名であった。少しはなれた食卓にただ一人すわっている日本人らしい若い紳士にハース氏が「アナタハニホンノカタデスカ」と話しかけると Ja ! といってうなずいて見せた。こちらがわざわざ日本語で話しかけるのに Ja ! はおかしいと言ってハース氏は私の耳につぶやいた。しかし自分はおかしいとは思えなかった。それはさびしい旅客のある心持ちを適切に語るものだとしか思われなかった。名刺をもらって見るとそれは某大学の留学生で法学士のN氏であった。N氏の話によると自分の旧知のK氏が今ちょうどドイツからイタリア見物の途上でナポリに来ているとの事であった。自分は会いたかったが出帆前にとてもそれだけの時間はなかった。思いもかけぬ異郷で同じ町に来合わせながら、そのままにまた遠く別れて行くのをわびしくもまたおもしろくも思った。
旗亭の入り口に立ってギターをひく若者があった。その曲が、なんだかポートセイドの小船の楽手らのやっていたのとよく似た心持ちを浮かべるものであった。同じようにせつないやるせのないようなものであった。自分はこれを聞きながら窓掛けの外に輝く南国の日光を見つめているうちに、不思議な透明なさびしさといったようなものに襲われたのであった。
ナポリへ帰って、ポーシリッポの古城もただ外から仰いで見ただけで船へ帰ると、いろいろの物売りが来ていた。古めかしい油絵の額や、カメオや七宝の装飾品などが目についた。双眼鏡の四十シリングというのをT氏が十シリングにつけたら負けてよこした。……五時出帆。少し波が出て船が揺れた。
[#地から3字上げ](大正十年二月、渋柿)
九 ゲノアからミラノ
五月三日
朝モントクリストの島を見て通った。鯨が潮を吹いていた。地中海に鯨がいてはいけない埋由はないだろうがなんだか意外な感じがした。昼過ぎから前方に陸が見えだし五時ごろにいよいよゲノアに着いた。
三十五日間世話になった船員にそれぞれトリンクゲルトを渡さなければならないのに、ちょうど食事時でボーイらは皆食堂へ出ているのでぐあいが悪くて少し気をもんだ。狭い廊下で待ち伏せして一人一人渡すのに骨が折れた。彼らはそれをかくしにねじ込みながら、カイゼルひげの立派な顔をしゃくって 〔Glu:ckliche Reise !〕 などと言った。
ハース氏は、イタリアの人足はずるくて、うっかりしていると荷物なんかさらわれるからと言って、先に桟橋《さんばし》へおりた自分らに見張り番をさせておいて船からたくさんのカバンや行李《こうり》をおろさせた。税関の検査は簡単に済んだ。自分がペンク氏から借りて持って来た海図の巻物を、なんだと聞かれたから、いいかげんのイタリア語でカルタマリーナと答えたら、わかったらしかった。
ホテル・ロアイヤールというのの馬車でハース氏の親子三人といっしょに宿へ着いた。ハース氏が安い部屋《へや》をとかけ合ってくれて、No.65 という三階の部屋へはいる。あまり愉快な部屋ではない。窓から見おろすとそこは中庭で、井戸をのぞくような気がする。下水のそばにきたない木戸があって、それに葡萄《ぶどう》らしいものがからんでいる。犬が一匹うろうろしている。片すみには繩《なわ》を張って、つぎはぎのせんたく物が干してある。表の町のほうでギターにあわせて歌っている声もこの井戸の底から聞こえて来た。遠くの空のほうからは寺院の鐘の旋律も聞こえていた。
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