asser というのは、水おけに浮いているりんごを口でくわえる芸当、Wurst Schnappen は頭上につるした腸詰めへ飛び上がり飛び上がりして食いつく遊戯である。将校が一々号令をかけているのが滑稽《こっけい》の感を少なからず助長するのであった。
 船首の突端へ行って海を見おろしていると深碧《しんぺき》の水の中に桃紅色の海月《くらげ》が群れになって浮遊している。ずっと深い所に時々大きな魚だか蝦《えび》だか不思議な形をした物の影が見えるがなんだとも見定めのつかないうちに消えてしまう。
 右舷《うげん》に見える赤裸の連山はシナイに相違ない、左舷にはいくつともなくさまざまの島を見て通る。夕方には左にアフリカの連山が見えた。真に鋸《のこぎり》の歯のようにとがり立った輪郭は恐ろしくも美しい。夕ばえの空は橙色《だいだいいろ》から緑に、山々の峰は紫から朱にぼかされて、この世とは思われない崇厳な美しさである。紅海《こうかい》は大陸の裂罅《れっか》だとしいて思ってみても、眼前の大自然の美しさは増しても減りはしなかった。しかしそう思って連山をながめた時に「地球の大きさ」というものがおぼろげながら実認《リアライズ》されるような気がした。
四月二十八日
 朝六時にスエズに着く。港の片側には赤みを帯びた岩層のありあり見える絶壁がそばだっている。トルコの国旗を立てたランチが来て検疫が始まった。
 土人の売りに来たものは絵はがき、首飾り、エジプト模様の織物、ジェルサレムの花を押したアルバム、橄欖樹《かんらんじゅ》で作った紙切りナイフなど。商人の一人はポートセイドまで乗り込んで甲板で店をひろげた。
 十時出帆徐行。運河の土手の上をまっ黒な子供の群れが船と並行して走りながら口々にわめいていた。船ではだれも相手にしないので一人減り二人減り、最後に残った二三人が滑稽《こっけい》な身ぶりをして見せた。そして暑い土手をとぼとぼ引き返して行った。両岸ことにアラビアの側は見渡す限り砂漠《さばく》でところどころのくぼみにはかわき上がった塩のようなまっ白なものが見える。アフリカのほうにははるかに兀《ごつ》とした岩山の懸崖《けんがい》が見え、そのはずれのほうはミラージュで浮き上がって見えた。苦海《ビッターシー》では思いのほか涼しい風が吹いたが、再び運河に入るとまた暑くなった。ところどころにあるステーションだけには
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