んごちそうを食ってしまうと奥の蔵の間へ行って戸棚《とだな》から八犬伝《はっけんでん》、三国志《さんごくし》などを引っぱり出し、おなじみの信乃《しの》や道節《どうせつ》、孔明《こうめい》や関羽《かんう》に親しむ。この室《へや》は女の衣装を着替える所になっていたので、四面にずらりと衣桁《いこう》を並ベ、衣紋竹《えもんだけ》を掛けつらねて、派手なやら、地味なやらいろんな着物が、虫干しの時のように並んでいる。白粉《おしろい》臭い、汗くさい変な香がこもった中で、自分は信乃《しの》が浜路《はまじ》の幽霊と語るくだりを読んだ。夜のふけるにつれて、座敷のほうはだんだんにぎやかになる。調子を合わす三味線の音がすると、清らかな女の声でうたうのが手に取るように聞こえる。調子はずれの鄙歌《ひなうた》が一度に起こって皿《さら》をたたく音もする。ひとしきり歌がやんだと思うと、不意に鞭声粛々《べんせいしゅくしゅく》とたれやらがいやな声でわめく。
 信乃が腕をこまねいてうつむいている前に片手を畳につき、片袖《かたそで》をくわえている浜路の後ろに、影のように現われた幽霊の絵を見ていた時、自分の後ろの唐紙《からかみ》がするするとあいて、はいって来た人がある。見ると年増《としま》のほうの芸者であった。自分にはかまわず片すみの衣桁《いこう》に掛かっている着物の袂《たもと》をさぐって何か帯の間へはさんでいたが、不意に自分のほうをふり向いて「あちらへいらっしゃいね、坊ちゃん」と言った。そして自分のそばへ膝《ひざ》のふれるほどにすわって「オオいやだ、お化け」と絵をのぞく。髪の油がにおう。二人でだまって無心にこの絵を見ていたらだれかが「清香《きよか》さん」とあっちのほうで呼ぶ。芸者はだまって立って部屋《へや》を出て行った。
 俊ちゃんと二人で奥の間で寝てしまったころも、座敷のほうはまだ宵《よい》のさまであった。
 あくる日も朝から雨であった。昨夜の騒ぎにひきかえて静かすぎるほど静かであった。男は表の座敷、女どうしは奥の一間へ集まって、しめやかに話している。母上はねえさんと押し入れから子供の着物など引きちらして何か相談している。新聞を広げた上に居眠りを始めている人もある。酒のにおいのこもった重くるしいうっとうしい空気が家の中に満ちて、だれもかれも、とんと気抜けのしたようなふうである。台所ではおりおりトン、コトンと魚
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