竜舌蘭
寺田寅彦

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)宵闇《よいやみ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)幾日|義雄《よしお》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](明治三十八年六月、ホトトギス)
−−

 一日じめじめと、人の心を腐らせた霧雨もやんだようで、静かな宵闇《よいやみ》の重く湿った空に、どこかの汽笛が長い波線を引く。さっきまで「青葉茂れる桜井《さくらい》の」と繰り返していた隣のオルガンがやむと、まもなく門の鈴が鳴って軒の葉桜のしずくが風のないのにばらばらと落ちる。「初雷様だ、あすはお天気だよ」と勝手のほうでばあさんがひとり言を言う。地の底空の果てから聞こえて来るような重々しい響きが腹にこたえて、昼間読んだ悲惨な小説や、隣の「青葉しげれる桜井の」やらが、今さらに胸をかき乱す。こんな時にはいつもするように、机の上にひじを突いて、頭をおさえて、何もない壁を見つめて、あった昔、ない先の夢幻の影を追う。なんだか思い出そうとしても、思い出せぬ事があってうっとりしていると、雷の音が今度はやや近く聞こえて、ふっと思い出すと共に、ありあり目の前に浮かんだのは、雨にぬれた竜舌蘭《りゅうぜつらん》の鉢《はち》である。
 河野《こうの》の義《よし》さんが生まれた年だから、もうかれこれ十四五年の昔になる。自分もまだやっと十か十三ぐらいであったろう。きたる幾日|義雄《よしお》の初節句の祝いをしますから皆さんおいでくださるようにとチョン髷《まげ》の兼作爺《かねさくじい》が案内に来て、その時にもらった紅白の餅《もち》が大きかった事も覚えている。いよいよその日となって、母上と自分と二人で、車で出かけた。おりからの雨で車の中は窮屈であった。自分の住まっている町から一里半余、石ころの田舎道《いなかみち》をゆられながらやっとねえさんの宅《うち》へ着いた。門の小流れの菖蒲《しょうぶ》も雨にしおれている。もうおおぜい客が来ていて母上は一人一人にねんごろに一別以来の辞儀をせられる。自分はその後ろに小さくなって手持ちぶさたでいると、おりよくここの俊ちゃんが出て来て、待ちかねていたというふうで自分を引っ張ってお池の鯉《こい》を見に行った。ねえさん所には池があっていいと子供心にうらやましく思うていた。池はちょっ
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング