かでホーイと人を呼ぶ声が風のしきりに闇に響く。
嵐だと考えながら二階を下りて室《へや》に帰った。机の前に寝転んで、戸袋をはたく芭蕉の葉ずれを聞きながら、将《まさ》に来らんとする浦の嵐の壮大を想うた。海は地の底から重く遠くうなって来る。
こう云う淋しい夜にはと帳場へ話しに行った。婆さんは長火鉢を前に三毛を膝へ乗せて居眠りをしている。辰さんは小声で義太夫を唸りながら、あらの始末をしている。女中部屋の方では陽気な笑声がもれる。戸外の景色に引きかえて此処《ここ》はいつものように平和である。
嵐の話になって婆さんは古い記憶の中から恐ろしくも凄かった嵐を語る。辰さんが板敷から相槌をうつ。いつかの大嵐には黒い波が一町に余る浜を打上がって松原の根を洗うた。その時沖を見ていた人の話に、霧のごとく煙のような燐火《りんか》の群が波に乗って揺らいでいたそうな。測られぬ風の力で底無き大洋をあおって地軸と戦う浜の嵐には、人間の弱い事、小さな事が名残《なごり》もなく露《あら》われて、人の心は幽冥の境へ引寄せられ、こんな物も見るのだろうと思うた。
嵐は雨を添えて刻一刻につのる。波音は次第に近くなる。
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