前の宵、客のない暗い二階の欄干に凭《もた》れて沖を見ていた。昼間から怪しかった雲足はいよいよ早くなって、北へ北へと飛ぶ。夕映えの色も常に異なった暗黄色を帯びて物凄いと思う間に、それも消えて、暮れかかる濃鼠《こいねず》の空を、ちぎれちぎれの綿雲は悪夢のように果てもなく沖から襲うて来る。沖の奥は真暗で、漁火《いさりび》一つ見えぬ。湿りを帯びた大きな星が、見え隠れ雲の隙を瞬《またた》く。いつもならば夕凪《ゆうなぎ》の蒸暑く重苦しい時刻であるが、今夜は妙に湿っぽい冷たい風が、一しきり二しきり堤下の桑畑から渦巻《うずま》いては、暗い床の間の掛物をあおる。草も木も軒の風鈴《ふうりん》も目に見えぬ魂が入って動くように思われる。
 浜辺に焚火をしているのが見える。これは毎夜の事でその日漁した松魚《かつお》を割《さ》いて炙《あぶ》るのであるが、浜の闇を破って舞上がる焔の色は美しく、そのまわりに動く赤裸の人影を鮮やかに浮上がらせている。焔が靡く度にそれがゆらゆらと揺れて何となく凄い。孕《はらみ》の鼻の陰に泊っている帆前船の舷燈の青い光が、大きくうねっている。岬の上には警報台の赤燈が鈍く灯って波に映る。何処
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