いるかと思うと、惜しげもなくクリクリに剃りこぼしたままを、日に当てても平気でいる。
 着物は何処《どこ》かの小使のお古らしい小倉《こくら》の上衣に、渋色染の股引《ももひき》は囚徒のかと思われる。一体に無口らしいが通りがかりの漁師などが声をかけて行くと、オーと重い濁った返事をする。貧苦に沈んだ暗い声ではなくて勢いのある猛獣の吼声のようである。いつも恐ろしく真面目な顔をして煙草《たばこ》をふかしながら沖の方を見ている。怒っているのかと始めは思ったがそうではないらしい。いつ見ても変らぬ、これが熊さんの顔なのであろう。
 始めはこの不思議な店、不思議な熊さんを気味悪く思うたが、慣れてしまうとそんな感じもない。松原の外《はず》れにこんな店があってこんな人が居るのは極めて自然な事となってしまって、熊さんの歴史やこの店のいわれなどについて、少しも想像をした事もなく、人に尋ねてみる気も出なかった。もしこれで何事もなく別れてしまったら、おそらく今頃は熊さんの事などはとうに忘れてしまったかもしれぬが、ただ一つの出来事のあったため熊さんの面影は今も目について残っている。
 一夜浜を揺がす嵐が荒れた。
 嵐の
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