猫は三毛と黒と玉。夜中に婆さんが目を醒した時、一匹でも足りないと、家中を呼んで歩くため、客の迷惑する事も時にはある。この婆さんから色々の客の内輪《うちわ》の話も聞かされた。盗賊が紳商に化けて泊っていた時の話、県庁の役人が漁師と同腹になって不正を働いた一条など、大方はこんな話を問わず語りに話した。中には哀れな話もあった。数年前の夏、二階に泊っていた若い美しい人の妻の、肺で死んだ臨終のさまなど、小説などで読めば陳腐な事も、こうして聞けば涙が催される。浦の雨夜の茶話は今も心に残っているが、それよりも、婆さんの潮風に黒ずんだ顔よりも、垣の山吹よりも深く心に沁み込んで忘られぬものが一つある。
宿の裏門を出て土堤《どて》へ上り、右に折れると松原のはずれに一際《ひときわ》大きい黒松が、潮風に吹き曲げられた梢を垂れて、土堤下の藁屋根に幾歳の落葉を積んでいる。その松の根に小屋のようなものが一つある。柱は竹を堀り立てたばかり、屋根は骨ばかりの障子に荒筵《あらむしろ》をかけたままで、人の住むとも思われぬが、内を覗いてみると、船板を並べた上に、破れ蒲団がころがっている。蒲団と云えば蒲団、古綿の板と云えばそう
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