た。ちょっとした庭を控えて、庭と桑畑との境の船板塀には、宿の三毛《みけ》が来てよく昼眠《ひるね》をする。風が吹けば塀外の柳が靡《なび》く。二階に客のない時は大広間の真中へ椅子を持出して、三十疊を一人で占領しながら海を見晴らす。右には染谷《そめや》の岬、左には野井《のい》の岬、沖には鴻島《こうのしま》が朝晩に変った色彩を見せる。三時頃からはもう漁船が帰り始める。黒潮に洗われるこの浦の波の色は濃く紺青《こんじょう》を染め出して、夕日にかがやく白帆と共に、強い生々《いきいき》とした眺めである。これは美しいが、夜の欸乃《あいだい》は侘しい。訳もなしに身に沁む。此処《ここ》に来た当座は耳に馴れぬ風の夜の波音に目が醒めて、遠く切れ/\に消え入る唄の声を侘しがったが馴れれば苦にもならぬ。宿の者も心安くなってみれば商売気離れた親切もあって嬉しい。雨が降って浜へも出られぬ夜は、帳場の茶話に呼ばれて、時には宿泊人届の一枚も手伝ってやる事もある。宿の主人は六十余りの女であった。昼は大抵沖へ釣りに出るので、店の事は料理人兼番頭の辰さんに一任しているらしい。沖から帰ると、獲物を焼いて三匹の猫に御馳走をしてやる。
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