くらいで得た人生観や信条をどこまでも十年一日のごとく固守して安心しているのが宜《よ》いか悪いか、それとも死ぬまでも惑い悶《もだ》えて衰頽した躯《からだ》を荒野に曝《さら》すのが偉大であるか愚であるか、それは別問題として、私は「四十にして不惑《まどわず》」という言葉の裏に四十は惑い易い年齢であるという隠れた意味を認めたい。
 二十歳代の青年期に蜃気楼《しんきろう》のような希望の幻影を追いながら脇目もふらずに芸能の修得に勉めて来た人々の群が、三十前後に実世界の闘技場の埒内《らちない》へ追い込まれ、そこで銘々のとるべきコースや位置が割り当てられる。競技の進行するに従って自然に優勝者と劣敗者の二つの群が出来てくる。
 優者の進歩の速度は始めには目ざましいように早い。しかし始めには正であった加速度はだんだん減少して零になって次には負になる。そうしてちょうど四十歳近くで漸近的に一つの極限に接近すると同時に速度は減退して零に近づく。そこでそのままに自然に任せておけばどうなるだろう。たどり付いた漸近線の水準を保って行かれるだろうか。このような疑問の岐路に立ってある人は何の躊躇《ちゅうちょ》もなく一つの道をとる。そして爪先下りのなだらかな道を下へ下へとおりて行く、ある人はどこまでも同じ高さの峰伝いに安易な心を抱いて同じ麓の景色を眺めながら、思いがけない懸崖《けんがい》や深淵が路を遮る事の可能性などに心を騒がすようなことなしに夜の宿駅へ急いで行く。しかし少数のある人々はこの生涯の峠に立って蒼空を仰ぐ、そして無限の天頂に輝く太陽を握《つか》もうとして懸崖から逆さまに死の谷に墜落する。これらの不幸な人々のうちのきわめて少数なあるものだけは、微塵に砕けた残骸から再生する事によって、始めて得た翼を虚空に羽搏《はばた》きする。
 劣者の道の谷底の漸近線までの部分は優者の道の倒影に似ている。そして谷底まで下りた人の多数はそのままに麓の平野を分けて行くだろうし、少数の人はそこからまた新しい上り坂に取りつきあるいはさらに失脚して再び攀上《よじのぼ》る見込のない深坑に落ちるのであろうが、そのような岐《わか》れ路《みち》がやはりほぼ四十余歳の厄年近辺に在るのではあるまいか。

 このような他愛もない事を考えながらともかくも三年にわたる厄年を過して来た。厄年に入る前年に私は家族の一人を失ったが、その後にはそれほど著しい不幸には会わなかった。もっとも四十二の暮から自分で病気に罹《かか》って今でもまだ全快しない。この病気のために生じた色々な困難や不愉快な事がないではなかったが、しかしそれは厄年ではなくても不断に私につきまとっているものとあまり変らない程度のものであった。それでともかくも生命に別条がなくて今日までは過ぎて来た。
 それで結局これから私はどうしたらいいのだろう。

 厄年の峠を越えようとして私は人並に過去の半生涯を振り返って見ている。もう昼過ぎた午後の太陽の光に照らされた過去を眺めている、そして人並に愧《は》じたり悔やんだり惜しんだりしている。「有った事は有ったのだ」と幾百万人の繰返した言葉をさらに繰返している。
 過去というものは本当にどうする事も出来ないものだろうか。
 私の過去を自分だけは知っていると思っていたが、それは嘘らしい。現在を知らない私に過去が分るはずはない。原因があって結果があると思っていたが、それも誤りらしい。結果が起らなくてどこに原因があるだろう。重力があって天体が運行して林檎《りんご》が落ちるとばかり思っていたがこれは逆さまであった。英国の田舎である一つの林檎が落ちてから後に万有引力が生れたのであった。その引力がつい近頃になってドイツのあるユダヤ人の鉛筆の先で新しく改造された。
 過去を定めるものは現在であって、現在を定めるものが未来ではあるまいか。
 それともまた現在で未来を支配する事が出来るものだろうか。
 これは私には分らない、おそらく誰にも分らないかもしれない。この分らない問題を解く試みの方法として、私は今一つの実験を行ってみようとしている。それには私の過去の道筋で拾い集めて来たあらゆる宝石や土塊や草花や昆虫や、たとえそれが蚯蚓《みみず》や蛆虫《うじむし》であろうとも一切のものを「現在の鍋」に打《ぶ》ち込んで煮詰めてみようと思っている。それには古人が残してくれた色々な香料や試薬も注いでみようと思っている。その鍋を火山の火にかけて一晩おいた後に一番鶏《いちばんどり》が鳴いたら蓋をとってみようと思っている。
 蓋を取ったら何が出るだろう。おそらく何も変った物は出ないだろう。始めに入れておいただけの物が煮爛《にただ》れ煮固まっているに過ぎないだろうとしか思われない。しかし私はその鍋の底に溜った煎汁《せんじゅう》を眼を瞑《つむ》って呑み
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