干そうと思う。そうして自分の内部の機能にどのような変化が起るかを試験してみようと思っている。もし私の眼や手になんらかの変化が起ったら、その新しい眼と手で私の過去を見直し造り直してみよう。そしてその上に未来の足場を建ててみよう。もしそれが出来たら「厄年」というものの意義が新しい光明に照らされて私の前に現われはしまいか。
こう思って私は過去の旅行カバンの中から手捜《てさぐ》りに色々なものを取り出して並べて見ている。
先ず色々の書物が出て来る、大概は汚れたり虫ばんだりしてもう読めなくなっている。様々な神や仏の偶像も出て来るが一つとして欠け損じていないのはない。茶褐色に変ったげんげ[#「げんげ」に傍点]やばら[#「ばら」に傍点]の花束や半分喰い欠いだ林檎もあった。修学証書や辞令書のようなものの束ねたのを投げ出すと黴臭《かびくさ》い塵が小さな渦を巻いて立ち昇った。
定規《じょうぎ》のようなものが一|把《わ》ほどあるがそれがみんな曲りくねっている。升《ます》や秤《はかり》の種類もあるが使えそうなものは一つもない。鏡が幾枚かあるがそれらに映る万象はみんなゆがみ捻《ねじ》れた形を見せる。物差のようなもので半分を赤く半分を白く塗り分けたものがある。私はこの簡単な物差ですべてのものを無雑作に可否のいずれかに決するように教えられて来たのであった。骨牌《カルタ》のような札の片側には「自」反対の側には「他」と書いてある。私は時と場合とに応じてこの札の裏表を使い分ける事を教えられた。
見ているうちに私はこの雑多な品物のほとんど大部分が皆貰いものや借り物である事に気が付いた。自分の手で作るか、自分の労力の正当な報酬として得たもののあまりに少ないのに驚いた。これだけの負債を弁済する事が生涯に出来るかどうか疑わしい。しかし幸か不幸か債権者の大部分はもうどこにいるか分らない。一巻の絵巻物が出て来たのを繙《ひもと》いて見て行く。始めの方はもうぼろぼろに朽ちているが、それでもところどころに比較的鮮明な部分はある。生れて間もない私が竜門《りゅうもん》の鯉を染め出した縮緬《ちりめん》の初着《うぶぎ》につつまれ、まだ若々しい母の腕に抱かれて山王《さんのう》の祠《やしろ》の石段を登っているところがあるかと思うと、馬丁に手を引かれて名古屋の大須観音《おおすかんのん》の広庭で玩具を買っている場面もある。淋しい田舎の古い家の台所の板間で、袖無を着て寒竹《かんちく》の子《こ》の皮をむいているかと思うと、その次には遠い西国のある学校の前の菓子屋の二階で、同郷の学友と人生を論じている。下谷《したや》のある町の金貸しの婆さんの二階に間借りして、うら若い妻と七輪《しちりん》で飯を焚《た》いて暮している光景のすぐあとには、幼い児と並んで生々しい土饅頭《どまんじゅう》の前にぬかずく淋しい後姿を見出す。ティアガルテンの冬木立や、オペラの春の夜の人の群や、あるいは地球の北の果の淋しい港の埠頭《ふとう》や、そうした背景の前に立つ佗《わび》しげな旅客の絵姿に自分のある日の片影を見出す。このような切れ切れの絵と絵をつなぐ詞書《ことばが》きがなかったら、これがただ一人の自分の事だとは自分自身にさえ分らないかもしれない。
巻物の中にはところどころに真黒な墨で塗りつぶしたところがある。しかしそこにあるべきはずの絵は、実際絵に描いてあるよりも幾倍も明瞭に墨の下に透いて見える。
不思議な事には巻物の初めの方に朽ち残った絵の色彩は眼のさめるほど美しく保存されているのに、後の方になるほど絵の具の色は溷濁《こんだく》して、次第に鈍い灰色を帯びている。
絵巻物の最後にある絵はよほど奇妙なものである。そこには一つの大きな硝子《ガラス》の蠅取罎《はえとりびん》がある。その中に閉込められた多数の蠅を点検して行くとその中に交じって小さな人間が居る。それがこの私である。罎から逃れ出る穴を上の方にのみ求めて幾度か眼玉ばかりの頭を硝子の壁に打ち当てているらしい。まだ幸いに器底の酢の中に溺れてはいない。自由な空へ出るのには一度罎の底をくぐらなければならないという事が蠅にも小さな私にも分らないと見える。もっとも罎を逃れたとしたところで、外界には色々な蠅打ちや蠅取蜘蛛《はえとりぐも》が窺《うかが》っている。それを逃れたとしても必然に襲うて来る春寒《はるさむ》の脅威は避け難いだろう。そうすると罎を出るのも考えものかもしれない。
過去の旅嚢《りょのう》から取り出される品物にはほとんど限りがない。これだけの品数を一度に容《い》れ得る「鍋」を自分は持っているだろうか。鍋はあるとした上でも、これだけのものを沸騰させ煮つめるだけの「燃料」を自分は貯えてあるだろうか。
この点に考え及ぶと私は少し心細くなる。
厄年の関を過ぎた私は立止
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