厄年と etc.
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)強《し》いて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ある朝偶然|縁側《えんがわ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)さなぎ[#「さなぎ」に傍点]
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気分にも頭脳の働きにも何の変りもないと思われるにもかかわらず、運動が出来ず仕事をする事の出来なかった近頃の私には、朝起きてから夜寝るまでの一日の経過はかなりに永く感ぜられた。強《し》いて空虚を充たそうとする自覚的努力の余勢がかえって空虚その物を引展《ひきの》ばすようにも思われた。これに反して振り返って見た月日の経過はまた自分ながら驚くほどに早いものに思われた。空漠な広野の果を見るように何一つ著しい目標のないだけに、昨日歩いて来た途《みち》と今日との境が付かない。たまたま記憶の眼に触れる小さな出来事の森や小山も、どれという見分けの付かないただ一抹《いちまつ》の灰色の波線を描いているに過ぎない。その地平線の彼方には活動していた日の目立った出来事の峰々が透明な空気を通して手に取るように見えた。
それがために、最近の数ヶ月は思いの外に早く経ってしまった。衰えた身体を九十度の暑さに持て余したのはつい数日前の事のように思われたのに、もう血液の不充分な手足の末端は、障子や火鉢くらいで防ぎ切れない寒さに凍えるような冬が来た。そして私の失意や希望や意志とは全く無関係に歳末と正月が近づきやがて過ぎ去った。そうして私は世俗で云う厄年《やくどし》の境界線から外へ踏み出した事になったのである。
日本では昔から四十歳になると、すぐに老人の仲間には入れられないまでも、少なくも老人の候補者くらいには数えられたもののようである。しかし自分はそう思わなかった。四十が来ても四十一が来ても別に心持の若々しさを失わないのみならず肉体の方でもこれと云って衰頽《すいたい》の兆候らしいものは認めないつもりでいた。それでもある若い人達の団体の中では自分等の仲間は中老連などと名づけられていた。
あまり鏡というものを見る機会のない私は、ある朝偶然|縁側《えんがわ》の日向《ひなた》に誰かがほうり出してあった手鏡を弄《もてあそ》んでいるうちに、私の額の辺に銀色に光る数本の白髪を発見した。十年ほど前にある人から私の頭の頂上に毛の薄くなった事を注意されて、いまに禿《は》げるだろうと、予言された事があるが、どうしたのかまだ禿頭《とくとう》と名の付くほどには進行しない。禿頭は父親から男の子に遺伝する性質だという説があるが、それがもし本当だとすると、私の父は七十七歳まで完全に蔽《おお》われた顱頂《ろちょう》を有《も》っていたから、私も当分は禿げる見込が少ないかもしれない。しかしその代りにいつの間にか白髪が生えていた。
それから後に気を付けて見ると同年輩の友人の中の誰彼の額やこめかみにも、三尺以上|距《はな》れていてもよく見えるほどの白髪を発見した。まだ自分等よりはずっと若い人で自分より多くの白髪の所有者もあった。ある時たまたま逢った同窓と対話していた時に、その人の背後の窓から来る強い光線が頭髪に映っているのを注意して見ると、漆黒な色の上に浮ぶ紫色の表面色が或るアニリン染料を思い出させたりした。
またある日私の先輩の一人が老眼鏡をかけた見馴れぬ顔に出会《でくわ》した。そして試みにその眼鏡を借りて掛けて見ると、眼界が急に明るくなるようで何となく爽やかな心持がした。しばらくかけていて外すと、眼の前に蜘蛛《くも》の糸でもあるような気がして、思わず眼の上を指先でこすってみた。それから気が付いて考えてみると、近頃少し細かい字を見る時には、不知不識《しらずしらず》眼を細くするような習慣が生じているのであった。
去年の夏子供が縁日で松虫を買って来た。そして縁側の軒端《のきば》に吊しておいた。宵のうちには鈴を振るような音がよく聞こえたが、しかしどうかするとその音がまるで反対の方向から聞こえるように思われた。不思議だと思って懐中時計の音で左右の耳の聴力を試験してみると、左の耳が振動数の多い音波に対して著しく鈍感になっている事が分った。のみならず雨戸をしめて後に寝床へはいるとチンチロリンの声が聞こえなかった。すぐ横にねている子供にはよく聞こえているのに。
私の方では年齢の事などは構わないでいても、年齢の方では私を構わないでおかないのだろう。ともかくも白髪と視力聴力の衰兆とこれだけの実証はどうする事も出来ない。これだけの通行券を握って私は初老の関所を通過した。そしてすぐ眼の前にある厄年の坂を越えなければならなかった。
厄年というものはいつの世から称え出した事か私は知らない。どういう根拠に依ったものかも分らない。たぶん
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