は多くの同種類の云い伝えと同様に、時と場所との限られた範囲内での経験的資料とある形而上的の思想との結合から生れたものに過ぎないだろう。例えば二百十日に颱風《たいふう》を聯想させたようなものかもしれない。もっとも二百十日や八朔《はっさく》の前後にわたる季節に、南洋方面から来る颱風がいったん北西に向って後に抛物線《ほうぶつせん》形の線路を取って日本を通過する機会の比較的多いのは科学的の事実である。そういう季節の目標として見れば二百十日も意味のない事はない、しかし厄年の方は果してそれだけの意味さえあるものだろうか。
 科学的知識の進歩した結果として、科学的根拠の明らかでない云い伝えは大概他の宗教的迷信と同格に取扱われて、少なくも本当の意味での知識的階級の人からは斥《しりぞ》けられてしまった。もちろん今でも未開時代そのままの模範的な迷信が到るところに行われて、それが俗にいわゆる知識階級のある一部まで蔓延《まんえん》している事は事実であるが、それとは少し趣を異にした事柄で、科学的に験証され得る可能性を具えた命題までが、一からげにして掃き捨てられたという恐れはないものだろうか。そのようにして塵塚に埋れた真珠はないだろうか。
 根拠の無い事を肯定するのが迷信ならば、否定すべき反証の明らかでない命題を否定するのは、少なくも軽率とは云われよう。分らぬ事として竿の先に吊しておくのは慎重ではあろうが忠実とは云われまい。例えば厄年のごときものが全く無意味な命題であるか、あるいは意味の付け方によっては多少の意味の付けられるものではあるまいか。
 このような疑問を抱いて私は手近な書物から人間の各年齢における死亡率の曲線を捜し出してみた。すべての有限な統計的材料に免れ難い偶然的の偏倚《へんい》のために曲線は例のように不規則な脈動的な波を描いている。しかし不幸にして特に四十二歳の前後に跨《また》がった著しい突起を見出すことは出来なかった。これだけから見ると少なくもその曲線の示す範囲内では、四十二歳における死亡の確率が特別に多くはないという漠然とした結論が得られそうに見える。
 しかし統計ほど確かなものはないが、また「統計ほど嘘をつくものはない」という事は争われないパラドックスである。上の曲線は確かに一つの事実を示すが、これは必ずしも厄年の無意味を断定する証拠にはならない。
 科学者が自然現象の週期を発見しようとして被与材料を統計的に調査する時に、ある短い期間については著しい週期を得るにかかわらず、あまり期間を長く採るとそれが消失するような事が往々ある。そのような場合に、短期の材料から得た週期が単に偶然的のものである場合もあるが、またそうでない場合がある。ある期間だけ継続する週期的現象の群が濫発的に錯綜《さくそう》して起る時がそうである。
 これはただ一つの類例に過ぎないが、厄年の場合でも材料の選み方によってはあるいは意外な結果に到着する事がないものだろうか。例えば時代や、季節や、人間の階級や、死因や、そういう標識に従って類別すれば現われ得べき曲線上の隆起が、各類によって位置を異にしたりするために、すべてを重ね合すことによって消失するのではあるまいか。
 このような空想に耽《ふけ》ってみたが、結局は統計学者にでも相談する外はなかった。しかしそんな空想に耳を傾けてくれる学者が手近にあるかないか見当が付かなかった。
 それはとにかくとして最近に私の少数な十に足りない同窓の中で三人まで、わずかの期間に相次いで亡くなった。いずれも四十二を中心とする厄年の範囲に含まれ得べき有為な年齢に病のために倒れてしまった。
 生死ということが単に銅貨を投げて裏が出るか表が出るかというような簡単なことであれば、三遍続けて裏が出るのも、三遍つづいて表が出るのも、少しも不思議な事ではない。もう少し複雑な場合でも、全く偶然な暗合で特殊な事件が続発して、プロバビリティの方則を知らない世人に奇異の念を起させたり、超自然的な因果を想わせる例はいくらでもある。それで私は三人の同窓の死だけから他のものの死の機会を推算するような不合理をあえてしようとは思わない。
 そうかと云って私はまた全くそういう推算の可能性を否定してしまうだけの証拠も持ち合せない。
 例えばある家庭で、同じ疫痢《えきり》のために二人の女の児を引続いて失ったとする。そして死んだ年齢が二人ともに四歳で月までもほぼ同じであり、その上に死んだ時季が同じように夏始めのある月であったとしたら、どうであろう。この場合にはもはや偶然あるいは超自然的因果の境界から自然科学的の範囲に一歩を踏み込んでいるように思われて来る。
 そういう方面から考えて行くと、同時代に生れて同様な趣味や目的をもって、同じ学校生活を果した後に、また同じような雰囲気の中に働い
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