称するものの胚芽《はいが》の一つとして見ることも出来はしないかという気がする。少なくも自分だけの場合について考えると、ずっと後に『ホトトギス』に書いた小品文などは、この頃の日記や短文の延長に過ぎないと思われる。
 裏絵や図案の募集もあって数回応募した。最初に軒端の廻燈籠《まわりどうろう》と梧桐《あおぎり》に天の河を配した裏絵を出したら幸運にそれが当選した。その次に七夕棚《たなばただな》かなんかを出したら今度は見事に落選した。その後子規に会ったとき「あれはまずい、前のと別人のようだと不折が云っていた」と云われた。その後に冬木立の逆様《さかさま》に映った水面の絵を出したらそれは入選したが「あれはあまり凝《こ》り過ぎてると碧梧桐《へきごどう》が云ったよ」という注意を受けた。
 やはりその頃であったと思うが、子規が熟柿を写生した絵を虚子《きょし》が見て「馬の肛門かと思った」と云った。それを子規がひどく面白がって「しかし本当にそう思ったんだから」ということを繰返し繰返し言い訳のように云うのであった。
 募集した絵をゆっくり一枚一枚点検しながら、不折や虚子や碧梧桐を相手に色々批評したり、また同時に
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