けははっきり思い出すことが出来る。
 その頃すでに読者から日記や短文の募集をしていた。自分も時に応募していたが、自分の書いた文章が活字になったのは多分それが最初であったと思う。理科大学の二年生で西片町《にしかたまち》に家を持っていたその頃の日記の一節を「牛頓日記」と名づけて出したことがある。牛頓はニュートンと読むのであるが実に妙な名前をつけたものだと思う。もっとも二年生のとき牛頓祭という理科大学学生年中行事の幹事をさせられたので、それが頭にあったためかもしれない。また、短文の方は例えば「赤」とか「旅」とかいう題を出して、それにちなんだ十行か二十行くらいの文章を書かせるのであった。何という題であったか忘れたが、自分が九歳の頃東海道を人力車で西下したときに、自分の乗っていた車の車夫が檜笠《ひのきがさ》を冠っていて、その影が地上に印しながら走って行くのを椎茸《しいたけ》のようだと感じたと見えてその車夫を椎茸と命名したという話を書いた。子規がその後時々自分に「あの椎茸のようなのはもっとないかね」と云ったことを思い出す。あの頃の短文のようなものなども、後に『ホトトギス』の専売になった「写生文」と
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