ぎをしたとの事であった。先生の目の周囲には青黒い輪が歴然と残っていた。自分はなんという理由なしに、この病気を起こさせた責任が自分らにあるような気がしてしかたがなかった。とにかくおとぎ芝居へ行ったのはただあの時一度だけであった。
 五歳になる雪子《ゆきこ》が姉につれられて病院へ見舞いに来た。始めのうちはおとなしくして看護婦の顔ばかり見て黙っていたが、だんだんに慣れて来て、おしまいにはとうとう寝台の上まで上がり込んで来た。そして枕《まくら》もとの花鉢《はなばち》をのぞき込んで、葉陰にかくれた木札を見つけ、かなで書いた花の名を一つ一つ大きな声で読み上げた、その読み方がおかしいので皆が笑った。近ごろかたかなを覚えたものだから、なんでもかたかなさえ見れば読んでみなくてはいられないのである。それから後は来るたびごとに寝台にすわりこんで、この花の名を読まない事はなかった。自分は今さらのように「文字」というものの不思議な意味を考えさせられ、また人間の知識の未来というような事についてもいろいろの事を考えさせられた。
 ポインセチアとはいったいどうつづるのか知りたいと思っていた。偶然|丸善《まるぜん》から
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