のころからもうだいぶ悪くなっていた自分の胃はその日は特に固く突っ張るようで苦しかった。あとから考えてみるとあの時分から自分の胃はもう少しずつ出血を始めていたのである。そうとも知らずわずかの車賃を倹約するつもりで我慢して歩いて行った。重態の先生には面会は許されなかった。しかし持って行った花は夫人が病床へ運んでくれた。夫人はやがて病室から出て来て「きれいだなと言っていましたよ」と言った。考えてみるとこれが先生から間接にでも受けた最後の言葉であった。今自分は先生の生命を奪い去った病と同じ病で入院している。幸いに今度はたいして危険もなくて済みそうである。同じ季節に同じ病気をして同じベコニアの花を枕《まくら》もとに見るというのは偶然の事といえば偶然であるが、よく考えてみたらそこに何かの必然の因果があるのではないかという気がした。普通に偶然の暗合と見られる事でも、実はそうでない場合がかなりしばしばある。先生と弟子《でし》との間にある共通な点があらば、それは単に精神的のものでもこれが肉体の上に多少の影響を及ぼさないとは言われない。あるいは逆に肉体に共通な点のあるのが原因でそれが精神に影響して二人の別
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