人は皆科学者でなければならない。
 撚り糸も針金もあらゆる弾性体|否《いな》形状大小を備えた物体は皆同様である。もしも履歴の影響が時とともに速やかに漸進線的に収斂しなかったらどうであろうか。すべての物体は雲煙のごとくまた妖怪|変化《へんげ》と類を同じうするだろう。
 重量約一匁とか長さ約一寸といえば通例|衡《はか》り方|度《はか》り方の粗雑な事を意味する。丁度一匁とかキッチリ一寸など云えば大変に正確に聞えるが、精密とか粗雑とかいうのも結局は相対的の言葉である。人智の測り得る所いずれか粗雑ならざらんやである。丁度と云いキッチリというのも約というのも根本的の相違はない。一尺の竹の尺度を百本比較すれば百本ながら違っている。丁度一尺という長さは抽象であって現実にはない。一メートルの標準尺度の二つの目盛りの中心の間を単位とすれば一メートルの尺度はそれただ一つである。そして頼みに思うその唯一の長さは、実は前に煩わしく述べたような訳であまり一定なものではないのである。
 有難い事には万物相関の影響は収斂級数で表わされ、履歴の影響は漸進的に消滅し、しかして人間の官能には限界が存している。それで一匁とか一尺とかいう言葉が通用して、1.0023 でも 1.0012 でも一尺|差《ざし》である。天気がどんなでも一尺差はやはり一尺差であって、呉服商が一々寒暖計と相談する必要がない。物理学者が尺度の比較をする時には寒暖計を八《や》かましく云っても、天王星やシリアスの位置を帳面につける必要はまだない。もしもそうでなかったらたとえ一メートルの標準尺度をカドミウム線の波長と比較しようとしても光の波長自身がどうして頼みになるであろう。
 測定という事が可能であり、測定した量の間に幾分でも普遍な関係が見出され簡単な言葉で方則が述べ得られるのは、畢竟《ひっきょう》孤立系というものが考えられるという事にもなる。また無限の項から成る級数の初めの数項以下を省略しても、吾人の官能上差別を感じないという事にもなる。あるいは自然界の現象が有限な項から成る方程式である程度まで代表され得るというのである。無限にあるべきはずの残余の項の効果が微小となるのは、あながち最初に出した簡単な級数のようになるというのではない。彼《か》の級数は収斂の仕方の遅いものである。ここで云う残余の項は多くはもっと速やかに急に収斂するのである。また一つ忘れてならぬ事はこれらの微小な残余の項が多くはいわゆる偶然の方則に従って分布され、プラスとマイナスとが相消去するために結果が蓄積せぬ事である。一定の位置並びに寒暖計の示す温度において測った金属棒の長さは、不可測的の雑多な微細な原因のために、種々異なる価を与えても多数の測定の平均はある程度まで一致すると考えられるのはやはりこの偶然の御蔭である。こういう風に考えれば長さという言葉の意味もほぼ定まって来る。
 こういう風に考えて来ると、方則というものの見方が色々あるように思われる。吾人がある有限な条件を限ってこれを指定し、他の影響は全くないと仮定した場合の結果を云い表わすものとも云われる。これは簡単明瞭であるが抽象的である。この考えでは方則を云い表わす方程式は初めから有限の独立変数を含む有限の項から成るものである。しかし厳密に云えば、かくのごとき抽象的の状況は実現する事の出来ぬものである。もう一つの見方は、この方程式の後尾へそれ自身に小さくまた沢山の場合の平均が零に漸進するような無限級数を附加して考えるのである。平たく云えば、方則というものを一種の平均の近似的の云い表わしと考えるのである。そうすれば方則というものはよほど現実的な意味を持つようになって来る。このような区別は甚だつまらぬ事のようであるが、自分はあながちそうとは思わない。
 ガス体の方則などはガスを均質な連続体と見做《みな》す時は至極簡単な意味のものであるが、これが沢山な分子の集合体であると見做せば、これらの方則は複雑多様な関係の平均の云い表わしという外には意味はなくなってしまう。電気のごときも近来量子的のものと考えられる以上は、例えば静電気分布に関する旧来の理論も畢竟一種の統計的の意味しかないようになって来る。光などでも単一な球面波のごときものは実現し難いものであって、実際の光はやはり複雑多様な要素の集団であって光の強度というような概念も多くはただ平均的の意味を有《も》つのみである。
 しかし人間が超顕微鏡的の眼を有っていない以上は分子や電子を直接見る事が出来ない。それで多くの場合にはこのようなものを考えなくて却《かえ》って事柄は簡単に明瞭に処理されるのである。もし量子的の考えを用いずしてすべての現象が矛盾なしに説明され得るのであったら、何を苦しんで殊更に複雑な統計的の理論を担ぎ出す必要があるであろう
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