といえばただ偶然の方則が支配するばかりであって要するに科学は成立しそうもないのである。
上に述べたペンに働く力はこれに止まらぬ。ペンに微量の荷電があれば、あるいは自身にはなくても他に荷電体があれば、その感応によって周囲の物との間に引斥力が起る。また地球磁場等の影響はこれに偶力《ぐうりょく》を及ぼす事になる。その磁場は諸天体にも感応し反対に諸天体の磁場もまたこれに影響する。仮りに周囲や天体の荷電や付磁がことごとく恒同で既知であっても事柄は複雑であるのに、いわんやこれら相互の位置状態の変化から生ずる相互の影響を考えなければならぬとなればいよいよ面倒な事になってしまう。もしもこれらの影響が収斂級数を作らなかったなら果してどうであろうか。
ペンに働く力はまだこれに限らぬ。空気の浮力はかなりの影響がある。しかしてこれにはその室内の気温、気圧、湿度が直ちに関係する。また微弱な気流でもその落下の方向速度を変える事は明白である。しかるにこれらの温度や気流等はまた室内のみならず室外全宇宙の現象の影響を受けぬ訳には行かぬ。なおこのような影響を及ぼすものを列挙すれば巻を更《か》えても尽す事は出来まい。
それならばペンの目方を指定しその落下の状況を予知するには、単に緯度や高さや温度や気圧を知るのみならず全宇宙の現状を知悉《ちしつ》する事が必要であろうか。力学物理学の教科書を繙《ひもと》いてみると極めて簡単な言葉で重力の方則や落体運動の方則が述べてある。吾人はこれらの方則に信頼して目方を比較し時計を使用して別に著しい不都合を感じない。これは不思議ではあるまいか。もしこれが何でもない事で分り切った事であったならば、世俗の人が科学を誤解し学者を唐変木視《とうへんぼくし》する気遣いは更にないはずである。
次にゼンマイ秤《ばかり》で物の目方を衡《はか》る場合を考えてみよう。不断に変化する宇宙全体が秤皿に影響してその総効果が収斂しなかったら一物の目方という定まった観念を得る事は出来まい。これだけでも第一目方とか質量とかいう言葉は意味を失うに相違ない。がただそればかりでない。
前に挙げた例では歴史の影響という事があまり問題にならなかった。すなわち現在の状況が主として現在だけで定まる場合であった。しかしゼンマイ秤の場合にはもう一つ面倒な歴史という事が現われて来るので、事柄は更に紛糾の度を加えて来る。仮りに目方の方が不変であるとしても、これを比較すべき弾条《ばね》の弾性というものがなかなか厄介千万なものである。これは第一、温度によって変化する。これは主要な影響であるが、なお少し立ち入って考えると、これは気圧にも湿度にもその他雑多の外界の状況によって変り得べきものと考えられる。また肝心の温度なるものがある度以上には正確に測れぬものである。もしも温度の影響が大きくその他の微細な雑多の影響が収斂しなかったら、ゼンマイ秤で目方を測るのは瓢箪《ひょうたん》で鯰《なまず》を捕える以上の難事であろう。今仮りに更に一歩を譲ってこれらの困難を切り抜けられるとして見ても、まだ弾性体に通有な「履歴の影響」という厄介な事が残っている。
履歴の影響とは何ぞや。定まった弾条に定まった重量を吊し、定まった温度その他の同時的条件を一切一様にしても、その長さは一定しないのである。すなわち過去において受けた取扱い如何によって種々の長さを与えるのである。一|匁《もんめ》の分銅《ふんどう》を一分間吊した後と、一時間あるいは一昼夜吊しておいた後とは幾分の差がある。またあらかじめ百匁を五分間吊した後十匁をかけたのと、一匁を同じく五分吊した後同じ十匁を懸けたのとでも若干の相違がある。また温度をいったん百度まで上げて十度に冷却したのと、零度から十度まで温めたのとでも同じではない。かくのごとき履歴の影響は厳密に云えばいつまでも全くは消滅しないものと考えられる。百年前の取扱いも些少《さしょう》ながらその印象を止めているはずである。それでただ現在の重量や温度その他の外界条件一切を羅列しても一条の弾条の長さは決定するものではない。弾条に限らずすべての弾性体の形状大小についても全く同様である。従って一つの針金の長さなどという言葉自身が既に無意味ではないまでも漠然たるものになりはしまいか。この曖昧さ加減を最も明らかに吾人に示すのは綿糸の撚《よ》り糸である。一条の撚り糸を与えられてその長さを精密に測ろうと企てた人は、ここに述べた困難を切実に味わう事が出来ようと思う。約三尺の糸は測る度ごとに一|分《ぶ》二分、時には寸余の相違を示すのである。それにもかかわらず三尺の糸と云えば吾人の頭脳には一定の観念を与えるような気がして言葉咎めをされる虞《おそれ》は先ずない。これは何故であろう。もしこれが分り切った事であれば、すべての世
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