か。数学的の興味は十分にあるとしても自然科学とは交渉の少ないものであろう。実際は幸か不幸かそうでない。化学的現象は勿論の事、ブラウン運動等の研究はますます分子原子の実存を証するようになり、真空管や放射性物質の研究はどうしても電子の存在を必然とするようになって来た。人間が簡単を要求しても自然はそれには頓着しない。ただ複雑な変化の微小な事、またポアンカレーの謂《い》うごとく複雑さが十分複雑であるために「偶然の方則」が行われ、多くの場合には簡単な平均的の云い表わしを抽象的に考える事が出来るのであろう。
 それで方則の云い表わす言葉は不変でもその意味は場合によって色々に考えられるのである。これは方則の中に含まれた概念の変化であって、それが元来云い表わす当面の事実の変化ではない。ただこの概念の変化によって新しい事実の発見されるごとに一々新しい方則を捻出する事が避けられるのである。
 一口に方則とは云うものの物理の方則でも色々の種類がある。フックの方則、ボイルの方則などのように適用の範囲の明白に限定されているものもあり、重力の方則、クーロンの方則のごときよほど普遍的なものもある。近似的の方則をどこまでも適用せんとして失敗し、「理論と実際の齟齬《そご》」という標語を真向にかざして学者を毛嫌いする世人の少なくないのは、これらの方則の近似的な事を忘れているためである場合もある。それは別問題として、厳密な意味において普遍的な正確な方則が可能であろうか。方則というものの成り立ちが前に述べたようなものであってみれば、すべての方則は近似的のものと云わなければなるまい。少なくとも近似的で無いという証拠はないようである。重力の方則は海王星の軌道以内には適用されるが、固体分子間の距離においても同様であろうか。この距離においては吾人は種々の場合に別の方則に従う凝集力を考えたくなる。この凝集力と重力とは如何なる関係があるだろうか。荷電導体内部における電場の零なる事からクーロンの方則の厳密な事を証するが常であるが、吾人の実験し得る導体の大きさに制限のある事を忘れてはなるまい。この方則が電子間の距離まで適用されるだろうか。銀河の近辺までも同様であろうか。これに対する確答はまだない。
 これらの引斥力が自乗反比例という簡単な言葉で表わされるのは驚くべき事であるというよりは、むしろかくのごとく簡単に云い表わし得る言葉があるのが驚くべき事だとピアソンは云っている。しかしあるいはこれらの力の方則を表わすべき数式の第一項に対して第二項以下の小さい事に驚くと云わねばならぬ事になりはしまいか。少なくともそういう風に考える方が自然科学者の今日の立場としてむしろ妥当ではあるまいか。しかしこの疑問以上に立ち入る事は科学者の領域以外に踏み出すと思う。
 こんな事を書いて公にしようというについて一つ考えなければならぬ事がある。すなわちかくのごとき漠然たる議論を並べた結果、一部の読者には誤解を生じまた一部の学者からは独断の邪説でとして攻撃される虞《おそれ》が甚だ少なくないように思う。ある読者はますますあるいは始めていわゆる精密科学の基礎の案外薄弱な事を考えて、その価値と効果を疑うかもしれない。しかし自分がここまで述べて来た事は正にこの点について疑いを解かんがためである。この疑いに対しては今まで述べた事をもう一遍繰返す外はない。そしてかくのごとき基礎の上に立った学問の効果は眼前の科学的文化である事を附け加えたい。次に学者の方から見れば、重力の方則等までも近似的と見做したりするような考えは幾多の非難があるかもしれない。実際こういうような考えはある意味において甚だ危険である。往々考えが形而上的に走り、罷《まか》り違えば誇大妄想狂となんら選む所のないような夢幻的の思索に陥って、いつの間にか科学の領域を逸する虞がある。この意味の危険を避けるために、どこまでも科学の立脚地たる経験的事実を見失わぬようにしなければならない。論理の糸を手繰《たぐ》って闇黒な想像の迷路を彷徨《ほうこう》しているうちにどこかで新しい出口を見付け、そこで事実の日光にまともに出くわすまでは何事も主張する権利はない事を心得ていなければならない。しかし懐疑と想像とは科学の進歩に必要な衝動刺戟である。疑い且《か》つ想像をめぐらす前に、先ず現在の知識の限界を窮《きわ》めなければならぬ事は勿論である。現在科学の極限を見極めずして徒《いたず》らに奇説を弄《ろう》するは白昼|提灯《ちょうちん》を照らして街頭に叱呼する盲者の亜類である。方則を疑う前には先ずこれを熟知し適用の限界を窮めなければならぬ。その上で疑う事は止むを得ない。疑って活路を求めるには想像の翼を鼓するの外はないのであろう。
 現在の科学の基礎方則を疑うのは危険であっても、社会主義が国
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