家主義に危険であったり青年の思潮が老人に危険であるのとは趣を異にする。この説明は歴史がしてくれるのである。プトレミー派の学者は地球を不動と考えて、太陽は勿論其の他の遊星も皆その周囲を運行するものと考えた。後にコペルニカスの地動説が出て前説よりも遥かに簡単に天体の運動を説明し得る事が分り、ケプレル、ニュートンを経ていよいよ簡単な運動の方則で天体の諸現象を述べ尽す事が出来た。しかし今日ではある簡単な問題を考える場合には依然としてプトレミーの考えを使用して怪しまない。またニュートンの力学の基礎は輓近《ばんきん》相対原理の発展につれてぐらついて来たには相違ない。しかしこの原理の研究が何程《どれほど》進んでも、ニュートンの力学が廃滅に帰するという訳ではあるまい。日常普通の問題にこれを応用して少しも不都合はないはずである。精巧な測器が具備している今日でも、場合によって科学者が指や歩数をもって長さを測る事を恥としない。それで科学の方則が如何に変っても、人間社会の幸福は損われぬのみならず増すばかりである。科学がこれによって進歩する事は申すまでもない。
 これに聯関して起る問題は科学の基礎や方法に関する事柄を初学者に吹き込む事の可否である。中学校で物理学を教える場合に、方則の成立や意義や弱点を暗示するのは却って迷いを生じ誤解を起すという説もある。自分は教育家でないが、ただ自分一己の経験から推して考えれば、既に初学の時代にこの種の暗示を与える方が却って理解と興味を助長し研究的批評的の精神を鼓吹《こすい》するのではないかと思う。実際、物理学教科書にある方則と寄宿舎の規則との区別を自覚している生徒がどれだけあるか疑わしい。方則が日常身辺に行われている現象と如何なる交渉があるかも呑込むのは容易でないように見える。今これらの事柄を生徒に教えようとすれば如何に教うべきかという事が困難な問題である。しかし中学校では既に倫理道徳などという事すら教えているではないか。生徒の老成後の倫理道徳観が中学校で教わった所と如何ほど懸隔しても仕方がない。やはり中学校の倫理は無益ではない。自分は科学というものの方法や価値や限界などを多少でも暗示する事が却って百千の事実方則を暗記させるより有益だと信じたい。そうすれば今日ほど世人が科学の真面目《しんめんぼく》を誤解するような虞《おそれ》が少なくなり、また一方では科学的の研究心をもった人物を養成するに効果がありはしないかと考えるのである。[#地から1字上げ](大正四年十月『理学界』)



底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
   1997(平成9)年4月4日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「理学界」
   1915(大正4)年10月1日
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
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