ところとおもしろくないところもあるように思われ、またいろいろの「主張」がいったい本質的にどこがちがうのかわからないような場合もかなりあるように思われる。
 もっともそういえば仏教でも耶蘇《やそ》教でもフイフイ教でも同じになるかもしれないし、そうなればいったい何をおがんだらよいかわからなくなって困るかもしれない。
 俳諧が宗教のように「おがむ」ことならば宗派があるのは当然かもしれない。しかし俳諧はまた一方では科学的な「認識」でありうる。そのためにはただ一面だけを固執する流派は少し困るかもしれない。
 露月《ろげつ》の句に「薬には狸なんどもよかるべく」というのがある。狸も食ってみなければ味がわからない。食えば何かの薬にはなるかもしれないのである。

     七

 高等学校の一年から二年に進級した夏休みに初めて俳句というものに食いついて、夢中になって「新俳句」を読みふけった。天地万象がそれまでとはまるでちがった姿と意味をもって眼前に広がるような気がした。
 蒸し暑い夕風の縁側で父を相手に宣教師のようなあつかましさをもって「新俳句」の勝手なページをあけては朗読の押し売りをしたが、父のほうで
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