て零から無限大まで変化しうる可能性をもっている。
 しかし連句になると、もうそれほどの自由がきかなくなるのではないかと思われる。一重の網をのがれた魚でも三十六重の網には引っかかるのである。一枚の芸術写真に興味のない人でも映画はおもしろがるのである。
 それだのに現代において俳句のほうに大衆性があって、連句のほうは至って影が薄いのはどういうわけであろう。
 俳句の享楽は人の句を読むことよりもより多く自分で作ることにあるらしい。この点スキーやダンスに似ている。そうしてだれでもある程度まではできるから楽しみになる。しかし連句は読んでおもしろくても作るのはなかなかたいへんである。この点映画と同じである。そうしてしかも現在の大衆にはわかりにくい象徴的な前衛映画である。
 現代の俳句界はジャーナリズムの力を借りることなしには大衆を包括することができないのに、今のジャーナリズムの露骨主義と連句の暗示芸術というものとは本来別世界の産物である。しかし、現状をはなれて抽象的に考えてみると連句的ジャーナリズムやジャーナリズム的連句といったようなものの可能性も全然ないとは考えられない。たとえばロシア映画のある
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