ものは前者の類型であり、アメリカ映画のあるものは後者の仲間であると言ってもそうはなはだしい牽強付会《けんきょうふかい》ではあるまいと思われる。

     八

 連句の映画化ということについては、自分はこれまでに幾度もいろいろな場所で所見を述べたことがある。これについては同じような意見をもった人も少なくないようである。
 これに対立してまた、映画的な連句の新形式を予想することも可能である。これが、もしうまく行ったら、このほうはきっと現代の大衆に理解されやすく、模倣されやすく、従って享楽されやすいものになりそうである。
 昔漱石虚子によって試みられた「俳体詩」というものは、そういうものの無意識な萌芽のようなものであったかと思われる。しかしまだ芸術映画の理論などの問題にならない時代における最初の試みであったから、今から見るとそういう見地からは幼稚なものであったかもしれない。
 自分のここで映画的連句というのは一定のストーリーに基づいたシナリオ的な連句のつもりである。しかしシナリオ的な叙事詩とはだいぶちがうつもりである。一方では季題や去《さ》り嫌《きら》いや打ち越しなどに関する連句的制約を
前へ 次へ
全17ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング