ヘなしの句はあっても、それは例外であって、それでも影にかくれたてにはをもっているとも見られるであろう。
てにはに連関して考うべきことは切れ字の問題である。これは連歌時代からすでに発句がそれ自身に完結し閉鎖した形式を備えるべきものと考えられた結果起こった要求に応ずるための規定である。閉鎖してさえいれば四十八字皆切れ字であり、閉鎖していなければ「や」でも「かな」でも切れ字ではない。閉鎖するとは何を意味するか。これはむつかしい問題であるが、私見によると、二つの対象が対立して、それが総合的に一つの全体を完了する、いわば弁証法的とでも言われる形式を備えるのが「切れる」の意味であるらしく思われる。少なくもこれが自分の現在の作業仮説である。「や」はその上にあるものと下に来るものとを対立させるための障壁である。句を読むものが舌頭に千転する間にこの障壁が消えて二つのものが一つになりいわゆる陪音が鳴り響く。「かな」は詠嘆の意を含む終止符であるから普通の意味でも切れる切れ字には相違ないが、また一方では、もう一度繰り返して初五字を呼び出す力をもっている。そういう意味で終わりの五字と最初の五または五七とを対立させる機能をもっており、従って「や」と同等である。実際「や」と「かな」とは本来の意味においてもたいした相違はないのである。
この作業仮説に従えば「唐崎《からさき》の松は花よりおぼろにて」も、松と花との対立融合によって立派に完結しているので、この上に「かな」留めにしては言いおおせ言い過ぎになってなんの余情もなくなり高圧的命令的独断的な命題になるのであろう。「にて」はこの場合総合の過程を読者に譲ることによって俳諧の要訣《ようけつ》を悉《つく》しているであろう。
発句は完結することが必要であるが連俳の平句は完結しないことが必要である。なんとなれば前句と付け句と合わせてはじめて一つの完結した心像を作ることが付け句の妙味であるからである。
連句は言わば潜在意識的象徴によって語られた詩の連鎖であって、ポオや仏国象徴派詩人の考えをいっそう徹底させたものとも見られないことはない。また一方では夢の世界を描いたようないわゆる絶対映画「アンダルーシアの犬」のごときものとも類似したものである。また連句は音をもってする代わりに象徴をもって編まれた音楽である。実際連句一巻の形式はソナタのごとき音楽形式とかな
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