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 それはとにかく材料の選択と取り合わせだけではまだ発句はできない。これをいかに十七字の容器に盛り合わせるかが次の問題である。この点においても芭蕉一門の俳句は実に行くところまでいったん行き着いているように思われる。材料は割合に平凡でも生け方で花が生動するように少しの言葉のはたらきで句は俄然《がぜん》として躍動する。たとえば江上の杜鵑《ほととぎす》というありふれた取り合わせでも、その句をはたらかせるために芭蕉が再三の推敲《すいこう》洗練を重ねたことが伝えられている。この有名な句でもこれを「白露江《はくろえ》に横たわり水光《すいこう》天に接す」というシナ人の文句と比べると俳諧というものの要訣《ようけつ》が明瞭《めいりょう》に指摘される。芭蕉は白露と水光との饒舌《じょうぜつ》を惜しげなく切り取って、そのかわりに姿の見えぬ時鳥《ほととぎす》の声を置き換えた。これは俳諧がカッティングの芸術であり、モンタージュの芸術であることを物語る手近な一例に過ぎない。
 俳諧は截断《せつだん》の芸術であることは生花の芸術と同様である。また岡倉《おかくら》氏が「茶の本」の中に「茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現わす事をはばかるようなものをほのめかす術である」と言っているのも同じことで、畢竟《ひっきょう》は前記の風雅の道に立った暗示芸術の一つの相である。「言いおおせて何かある」「五六分の句はいつまでも聞きあかず」「七八分ぐらいに言い詰めてはけやけし」「句にのこすがゆえに面影に立つ」等いずれも同様である。このような截断《せつだん》節約は詩形の短いという根本的な規約から生ずる結果[#「結果」に傍点]であるが、同時にまた詩形の短さを要する原因[#「原因」に傍点]ともなるのである。
 同じ二つのものを句上に排列する前後によって句は別物になる。これは初心の句作者も知るところである。てにはただ一字の差で連歌と俳諧の差別を生じ、不易だけの句に流行の姿を生ずる。これらは例証するまでもないことである。
 てにはは日本語に特有なものである。「わが国はてには第一の国」である。西洋の言語学者らはだれもこのおそるべき利器の威力を知らない。短歌でもそうであるが、俳句においてこの利器はいっそうその巧妙な機能を発揮する。てにはは器械のギアーでありベアリングである。これあってはじめて運転が可能になる。表面上てに
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