乙の間に現存しているという場合においても、それだけでその語が甲から乙に移入されたものだと推定する事はできなくなる。なんとならばそれはかつて甲から乙に移った事があったとしても、それが甲と前後して乙でも死滅し、ずっとあとで丙から乙に移ったかもしれないからである。そのほか分子論的拡散論において言われるようないろいろの事は言われるが、これを要するに、一つ一つの言語の分子を比べるだけでは、それだけでは歴史的の前後は決定し難いという消極的な結果になるのである。これはちょうど水中のアルコホル分子を一つ一つ捕える事ができたにしてもわれわれは到底その一つ一つの径路を判定し難いと同様である。
しかし前の考察から一条の活路が示唆される。それは、約言すれば、同系言語の「統計的密度」の「勾配《こうばい》」(gradient)によって、その系の言語の拡散方向を推定するという方法である。
前の算式によって示さるるごとき理想的の場合においては、一般に同種分子の密度の勾配は、ともかくも中心に対して放射的である。これはもちろん計算を待たずとも明白な事である。それでもしかりにアジア大陸のある地点からある種の分子が四方に
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