生には満員電車も少なからず責任があるような気がする。不幸にして多くの文明の利器は時々南向いた豚さえも北へ向かせるように出来ているのが多い。いわんや北へ向いているのを駆け出させるような刺戟は到る処にころがっている。この刺戟を柔らげるには、どうも風呂が一番有効なように思われる。
 こんな話を友人のA君に話したら、A君のいうのに、昔ローマを滅ぼしたのは風呂場である、あまり風呂場を鼓吹するのは危険ではないかと。しかしまた考えてみると昔ローマには満員電車というもののなかった事も確かである。
 ドイツに居た時は、どういうものかいつも心持が緊張し過ぎて困った。交際した学生でも下宿の婆さんでも皆それぞれに緊張していた。他の国を旅行して帰りにドイツの国境を超えると同時に、この緊張がいつも著しく眼についた、すべてのものがカイゼルの髭《ひげ》のように緊張していた。英国へ渡るとなんだか急に呑気《のんき》になった、巡査を見ても牛乳屋を見ても誰を見ても一様に呑気な顔をしていた。あまり緊張が弛んだために眠くなって困った。米国へ渡ってもやはり人の顔が間延びがして呑気に見えた。前に引合に出した米国の学者が緊張し過ぎてい
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