はなれないが、しかし一度見たら妙に眼に残って忘れられない不思議なものをもっている。これに反してその隣にあった桜の写生屏風などは第一印象も第二第三の印象も自分には何も残らない。第一、部分と全体とが仲違いをして音信不通の体である。短夜の明け方の夢よりもつかまえどころのない絵であると思った。そういう絵が院展に限らず日本画展覧会には通有である。一体日本画というものが本質的にそういうものなのか。つまり日本画というものはこいう展覧会などに陳列すべきものでないのかとも考えてみる。しかしここにもし光琳《こうりん》でも山楽《さんらく》でも一枚持ってくればやっぱり光って見えはしないかとも思う。来年から、一室に一つくらいずつそういう参考品を陳列して刺戟剤にしてはどうかと、そんな事も考えてみた。
個人展覧会は別として、こういう綜合展覧会は結局個性の展覧会である、それだのに個性のない絵を何百も並べては少なくも展覧会の観客の大部分を形成する素人の見物には退屈の外何物をも与えない。多少の個性は勿論一人一人に多少ずつはあっても、それが浜の真砂の一つ一つの個性のような個性では専門家以外には興味は稀薄である。一粒選りの
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