を描くよりも、表現すべき自己を開拓する方の努力がもっと重大である。それがためには、しばらく絵筆をすてて物に親しむ事に多くの時を費やす必要がある。

 海老原《えびはら》氏の変った絵がある。こういう種類の絵が、作者にどれほど必然であるか、が何時でも自分には分らない。例えばルソオなどという人はおそらく、ああいう絵より外の絵は描けなかった人だろうと思うが。――とにかく形式はルソオのようなところはあっても味はまるでちがうと思う。

 田中豊三郎氏の人物二枚も随分変っている。しかしこの人のには、どこかしらこの人のオリジナルティがある。誇張したようなところにもどこか素直な、のびやかなところがあると思う。だんだんに善いところと悪いところを篩《ふる》い分けて進むといいかと思う。

 上山《かみやま》氏の「金魚と花」というのがある。こういう絵は虚心で見ると面白いところもあるが、しかし、自分は、何となく欺《だま》されるのではないかという気がして困るのである。それはとにかく、こういう絵は、もう少し清潔に仕上げた方がよくはないかと思う。絵具をのせる地質の研究が要る。

 恒川《つねかわ》氏の風景画には、ちょっ
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