強度なりが現代のわれわれのそれよりも多大であったことは確かであろう。蘭学《らんがく》の先駆者たちがたった一語の意味を判読し発見するまでに費やした辛苦とそれを発見したときの愉悦とは今から見れば滑稽《こっけい》にも見えるであろうが、また一面には実にうらやましい三昧《ざんまい》の境地でもあった。それに比べて、求める心のないうちから嘴《くちばし》を引き明けて英語、ドイツ語と咽喉仏《のどぼとけ》を押し倒すように詰め込まれる今の学童は実にしあわせなものであり、また考えようではみじめなものでもある。
子供の時分にやっとの思いで手にすることのできた雑誌は「日本の少年」であった。毎月一回これが東京から郵送されて田舎《いなか》に着くころになると、郵便屋の声を聞くたびに玄関へ飛び出して行ったものである。甥《おい》の家では「文庫」と「少国民」をとっていたのでこれで当時の少青年雑誌は全部見られたようなものである。そうして夜は皆で集まって読んだものの話しくらをするのであった。明治二十年代の田舎の冬の夜はかくしてグリムやアンデルセンでにぎやかにふけて行ったのである。「しり取り」や「化け物カルタ」や「ヤマチチの話」
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