のを見たりとて面白くもなし湊川《みなとがわ》へ行て見んとて堤を上る。昼なれば白面の魎魅《りょうみ》も影をかくして軒を並ぶる小亭|閑《かん》として人の気あるは稀なり。並木の影涼しきところ木の根に腰かけて憩《いこ》えば晴嵐《せいらん》梢を鳴らして衣に入る。枯枝を拾いて砂に嗚呼《ああ》忠臣など落書すれば行き来の人吾等を見る。半時間ほども両人無言にて美人も通りそうにもなし。ようよう立上がりて下流へ行く。河とは名ばかりの黄色き砂に水の気なくて、照りつく日のきらめく暑そうなり。川口に当りて海面鏡のごとく帆船の大き小さきも見ゆ。多門通りより元の道に出てまた前の氷屋に一杯の玉壺を呼んで荷物を受取り停車場に行く。今ようやく八時なればまだ四時間はこゝに待つべしと思えば堪えられぬ欠伸《あくび》に向うに坐れる姉様けゞん顔して吾を見る。時これ金と云えばこの四時間何金に当るや知らねどあくびと煙草《たばこ》の煙に消すも残念なり、いざや人物の観察にても始めんと目を見開けば隣りに腰かけし印半天《しるしばんてん》の煙草の火を借らんとて誤りて我が手に火を落しあわてて引きのけたる我がさまの吾ながら可笑しければ思わず噴き出す。
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