になり、軒下に車の音しげくなり、時計を見れば既に五時半なり。急いで朝飯かき込み岡崎氏と停車場に馳《か》けつくれば用捨気《ようしゃげ》もなき汽車進行を始めて吐き出す煙の音乗り遅れし吾等を嘲るがごとし。珍しき事にもあらねど忌々《いまいま》しきものなり。先ず荷物を預けんとて二人のを一緒に衡《はか》らす。運賃弐円とは馬鹿々々しけれど致し方もなし。楠公《なんこう》へでも行くべしとて出立《いでた》たんとせしがまてしばし余は名古屋にて一泊すれども岡崎氏は直行なれば手荷物はやはり別にすべしとて再び切符の切り換えを求む。駅員の不機嫌顔甚だしきも官線はやはり官線だけの権力とか云うものあるべしと、かしこみて願い奉りようよう切符を頂戴して立ちいずれば吹き上ぐる朝嵐に藁帽《わらぼう》飛んでぬかるみを走る事|数間《すうけん》、ようやく追い付きて取止《とりとど》めたれど泥にまみれてあまり立派ならぬ帽の更に見ばえを落したる重ね/\の失敗なり。旅なればこれも腹は立たず。元町《もとまち》を線路に沿うて行く。道傍の氷店に入ってラムネ一瓶に夜来の渇望も満たしたればこゝに小荷物を預けて楠公祠《なんこうし》まで行きたり。亀の遊ぶ
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