革鞄の仮枕いたずらに堅きも悲しく心細くわれながら浅猿《あさま》しき事なり。残夢再びさむれば、もう神戸《こうべ》が見えますると隣りの女に告ぐるボーイの声。さてこそとにわかに元気つきて窓を覗《のぞ》きたれど月なき空に淡路島《あわじしま》も見え分かず。再びとろ/\として覚むれば船は既に港内に入って窓外にきらめく舷燈の赤き青き。汽笛の吼《ほ》ゆるごとき叫ぶがごとき深夜の寂寞《せきばく》と云う事知らぬ港ながら帆柱にゆらぐ星の光はさすがに静かなり。革鞄と毛布と蝙蝠傘《こうもりがさ》とを両手一ぱいにかかえて狭き梯子を上って甲板に上がれば既に船は桟橋《さんばし》へ着きていたり。苅谷氏に昨夕の礼をのべて船を下り安松へ上がる。岡崎賢七とか云う人と同室へ入れられ、宅《うち》へ端書《はがき》したゝむ。時計を見ればまだ三時なり。しかし六時の急行に乗る積りなれば落付いて眠る間もなかるべしと漱石師などへ用もなき端書したゝむ。ラムネを取りにやりたれど夜中にて無し、氷も梨も同様なりとの事なり。退屈さの茶を啜《すす》れば胸ふくれて心地よからず。とかくするうち東の空白み渡りて茜《あかね》の一抹《いちまつ》と共に星の光まばら
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