》しと一碗を傾くればはや厭《いや》になりぬ。寺田寅彦さんと云う方は御座らぬかとわめくボーイの濁声《だみごえ》うるさければ黙って居けるがあまりに呼び立つる故オイ何んだと起き上がれば貴方《あなた》ですかと怪訝顔《けげんがお》なるも気の毒なり。何ぞと言葉を和《やわ》らげて聞けば、上等室の苅谷さんからこれを貴方へ、と差出す紙包あくれば梨子《なし》二つ。有難しとボーイに礼は云うて早速《さっそく》頂戴するに半分ばかりにして胸つかえたれば勿体なけれど残りは窓から外へ投げ出してまた横になれば室内ようやく暗く人々の苦にせし夕日も消えて甲板を下り来る人多くなり、窮屈さはいっそう甚だしけれど吾一人にもあらねば致し方もなし。隣りに言葉|訛《なま》り奇妙なる二人連れの饒舌《じょうぜつ》もいびきの音に変って、向うのせなあが追分《おいわけ》を歌い始むれば甲板に誰れの持て来たものか轡虫《くつわむし》の鳴き出したるなど面白し。甲板をあちこちする船員の靴音がコツリ/\と言文一致なれば書く処なり。夢魂いつしか飛んで赴く処は鷹城《たかじょう》のほとりなりけん、なつかしき人々の顔まざ/\と見ては驚く舷側の潮の音。ねがえりの耳に
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