に胸静まり、さきの葡萄酒の酔心。ほっとしていつしか書中の人となりける。ボーイの昼食をすゝむる声耳に入りたれどもとより起き上がる事さえ出来ざる吾《われ》の渋茶一杯すゝる気もなく黙って読み続くるも実はこのようなる静穏の海上に一杯の食さえ叶《かな》わぬと思われん事の口惜《くちお》しければなり。
一篇広告の隅々まで読み終りし頃は身体ようやく動揺になれて心地やゝすが/\しくなり、半《なか》ば身を起して窓外を見れば船は今|室戸岬《むろとざき》を廻るなり。百尺岩頭燈台の白堊《はくあ》日にかがやいて漁舟の波のうちに隠見するもの三、四。これに鴎《かもめ》が飛んでいたと書けば都合よけれども飛魚《とびうお》一つ飛ばねば致し方もなし。舟傾く時海また傾いて深黒なる奔潮天と地との間に向って狂奔するかと思わるゝ壮観は筆にも言語にも尽すべきにあらず。甲《かん》の浦《うら》沖を過ぐと云う頃ハッチより飯櫃《めしびつ》膳具《ぜんぐ》を取り下ろすボーイの声|八《や》ヶましきは早や夕飯なるべし。少し大胆になりて起き上がり箸を取るに頭思いの外《ほか》に軽くて胸も苦しからず。隣りに坐りし三十くらいの叔母様の御給仕|忝《かたじけな
前へ
次へ
全22ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング