ぶ汽笛の声に何となく心|急《せ》き立ちて端艇出させ、道中はことさら気を付けてと父上一句、さらば御無事でと子供等の声々、後に聞いて梯子駆け上れば艫《とも》に水白く泡立ってあたりの景色廻り舞台のようにくる/\と廻ってハンケチ帽子をふる見送りの人々。これに応ずる乗客の数々。いつの間にか船首をめぐらせる端艇小さくなりて人の顔も分き難くなれば甲板《かんぱん》に長居は船暈《ふなよい》の元と窮屈なる船室に這《は》い込み用意の葡萄酒一杯に喉を沾《うるお》して革鞄《かばん》枕に横になれば甲板にまたもや汽笛の音。船は早や港を出るよと思えど窓外を覗《のぞ》く元気もなし。『新小説』取り出でて読む。宙外《ちゅうがい》の「血桜」二、三頁読みかくれば船底にすさまじき物音して船体にわかに傾けり。皆々思わず起き上がる。港口浅せたるためキールの砂利に触るゝなるべし。あまり気味よからねば半頁程の所読んではいたれど何がかいてあったかわからざりしも後にて可笑しかりける。船の進むにつれて最早《もはや》気味悪き音はやんで動揺はようやく始まりて早や胸悪きをじっと腹をしめて専《もっぱ》ら小説に気を取られるように勉《つと》むればよう/\
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