出せばベルの音|忙《せわ》しく合図の呼子。汽笛の声。熱田《あつた》の八剣《やつるぎ》森陰より伏し拝みてセメント会社の煙突に白湾子と焼芋かじりながらこのあたりを徘徊《はいかい》せし当時を思い浮べては宮川《みやがわ》行の夜船の寒さ。さては五十鈴《いすず》の流れ二見《ふたみ》の浜など昔の草枕にて居眠りの夢を結ばんとすれどもならず。大府《おおぶ》岡崎|御油《ごゆ》なんど昔しのばるゝ事多し。豊橋も後になり、鷲津《わしづ》より舞坂《まいさか》にかゝる頃よりは道ようやく海岸に近づきて浜名《はまな》の湖窓外に青く、右には遠州洋《えんしゅうなだ》杳《よう》として天に連なる。漁舟江心に向かいてこぎ出せば欸乃《あいだい》風に漂うて白砂の上に黒き鳥の群れ居るなどは『十六夜日記《いざよいにっき》』そのままなり。浜松にては下りる人乗る人共に多く窮屈さ更に甚だしくなりぬ。掛川《かけがわ》と云えば佐夜《さよ》の中山《なかやま》はと見廻せど僅かに九歳の冬|此処《ここ》を過ぎしなればあたりの景色さらに見覚えなく、島田|藤枝《ふじえだ》など云う名のみ耳に残れるくらいなれば覚束《おぼつか》なし。金谷《かなや》の隧道《ずいどう
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