りて電車の往きかう音も騒がしからず。こうなれば宿帳つけに来し男の濡れ髪かき分けたるも涼しく、隣室にチリンと鳴るコップの音も涼しく、向うの室の欄干に倚《よ》りし女の白き浴衣《ゆかた》も涼しげなり。昨日よりの疲れ一時に洗い去られしようにてからだのび/\となる。手を拍《う》ちて床《とこ》をのべさせ横になれば新しき浴衣の肌さわりも快く、隣室の話声遠きように聞えし後は魂いずこへか飛んで藻ぬけの殻となり電燈消しに来し事もいつか知らず。円《まど》かなる夢百里の外に飛んで眼覚むれば有明の絹燈|蚊帳《かや》の外に朧《おぼろ》に、時計を見れば早や五時なり。手洗い口すゝぎなどするうち空ほの/″\と明けはなれたるが昨夜の雨の名残まだ晴れやらず、蚊帳をまくる風しめっぽきも心悪からず。膳に向かえば大野味噌汁。秋琴楼《しゅうきんろう》に仮寓《かぐう》の昔も思い出さしむ。勘定をすませ丸く肥え太りたる脊《せい》低き女に革鞄|提《さ》げさして停車場へ行く様、痩馬と牝豚の道行《みちゆき》とも見るべしと可笑《おか》し。この豚存外に心利きたる奴にて甲斐々々しく何かと世話しくれたり。間もなく駆け来る列車の一隅に座を構えて煙草取り
前へ 次へ
全22ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング