革鞄の仮枕いたずらに堅きも悲しく心細くわれながら浅猿《あさま》しき事なり。残夢再びさむれば、もう神戸《こうべ》が見えますると隣りの女に告ぐるボーイの声。さてこそとにわかに元気つきて窓を覗《のぞ》きたれど月なき空に淡路島《あわじしま》も見え分かず。再びとろ/\として覚むれば船は既に港内に入って窓外にきらめく舷燈の赤き青き。汽笛の吼《ほ》ゆるごとき叫ぶがごとき深夜の寂寞《せきばく》と云う事知らぬ港ながら帆柱にゆらぐ星の光はさすがに静かなり。革鞄と毛布と蝙蝠傘《こうもりがさ》とを両手一ぱいにかかえて狭き梯子を上って甲板に上がれば既に船は桟橋《さんばし》へ着きていたり。苅谷氏に昨夕の礼をのべて船を下り安松へ上がる。岡崎賢七とか云う人と同室へ入れられ、宅《うち》へ端書《はがき》したゝむ。時計を見ればまだ三時なり。しかし六時の急行に乗る積りなれば落付いて眠る間もなかるべしと漱石師などへ用もなき端書したゝむ。ラムネを取りにやりたれど夜中にて無し、氷も梨も同様なりとの事なり。退屈さの茶を啜《すす》れば胸ふくれて心地よからず。とかくするうち東の空白み渡りて茜《あかね》の一抹《いちまつ》と共に星の光まばらになり、軒下に車の音しげくなり、時計を見れば既に五時半なり。急いで朝飯かき込み岡崎氏と停車場に馳《か》けつくれば用捨気《ようしゃげ》もなき汽車進行を始めて吐き出す煙の音乗り遅れし吾等を嘲るがごとし。珍しき事にもあらねど忌々《いまいま》しきものなり。先ず荷物を預けんとて二人のを一緒に衡《はか》らす。運賃弐円とは馬鹿々々しけれど致し方もなし。楠公《なんこう》へでも行くべしとて出立《いでた》たんとせしがまてしばし余は名古屋にて一泊すれども岡崎氏は直行なれば手荷物はやはり別にすべしとて再び切符の切り換えを求む。駅員の不機嫌顔甚だしきも官線はやはり官線だけの権力とか云うものあるべしと、かしこみて願い奉りようよう切符を頂戴して立ちいずれば吹き上ぐる朝嵐に藁帽《わらぼう》飛んでぬかるみを走る事|数間《すうけん》、ようやく追い付きて取止《とりとど》めたれど泥にまみれてあまり立派ならぬ帽の更に見ばえを落したる重ね/\の失敗なり。旅なればこれも腹は立たず。元町《もとまち》を線路に沿うて行く。道傍の氷店に入ってラムネ一瓶に夜来の渇望も満たしたればこゝに小荷物を預けて楠公祠《なんこうし》まで行きたり。亀の遊ぶ
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