出せばベルの音|忙《せわ》しく合図の呼子。汽笛の声。熱田《あつた》の八剣《やつるぎ》森陰より伏し拝みてセメント会社の煙突に白湾子と焼芋かじりながらこのあたりを徘徊《はいかい》せし当時を思い浮べては宮川《みやがわ》行の夜船の寒さ。さては五十鈴《いすず》の流れ二見《ふたみ》の浜など昔の草枕にて居眠りの夢を結ばんとすれどもならず。大府《おおぶ》岡崎|御油《ごゆ》なんど昔しのばるゝ事多し。豊橋も後になり、鷲津《わしづ》より舞坂《まいさか》にかゝる頃よりは道ようやく海岸に近づきて浜名《はまな》の湖窓外に青く、右には遠州洋《えんしゅうなだ》杳《よう》として天に連なる。漁舟江心に向かいてこぎ出せば欸乃《あいだい》風に漂うて白砂の上に黒き鳥の群れ居るなどは『十六夜日記《いざよいにっき》』そのままなり。浜松にては下りる人乗る人共に多く窮屈さ更に甚だしくなりぬ。掛川《かけがわ》と云えば佐夜《さよ》の中山《なかやま》はと見廻せど僅かに九歳の冬|此処《ここ》を過ぎしなればあたりの景色さらに見覚えなく、島田|藤枝《ふじえだ》など云う名のみ耳に残れるくらいなれば覚束《おぼつか》なし。金谷《かなや》の隧道《ずいどう》長くて灯を点《とぼ》したる、これは昔蛇の住みし穴かと云いししれ者の事など思い出す。静岡にて乗客多く入れ換りたれど美人らしきは遂に乗らず。東の方は村雨《むらさめ》すと覚しく、灰色の雲の中に隠見する岬頭《こうとう》いくつ模糊《もこ》として墨絵に似たり。それに引きかえて西の空|麗《うるわ》しく晴れて白砂青松に日の光鮮やかなる、これは水彩画にも譬《たと》うべし。雨と晴れとの中にありて雲と共に東へ/\と行くなれば、ふるかと思えば晴れ晴るゝかと思えばまた大粒の雨|玻璃窓《はりまど》を斜に打つ変幻極まりなき面白さに思わず窓縁《まどべり》をたたいて妙と呼ぶ。車の音に消されて他人に聞えざりしこそ仕合せなりける。
 大井川の水|涸《か》れ/\にして蛇籠《じゃかご》に草離々たる、越すに越されざりし「朝貌《あさがお》日記」何とかの段は更なり、雲助《くもすけ》とかの肩によって渡る御侍、磧《かわら》に錫杖《しゃくじょう》立てて歌よむ行脚《あんぎゃ》など廻り燈籠のように眼前に浮ぶ心地せらる。街道の並木の松さすがに昔の名残を止むれども道脇の茶店いたずらにあれて鳥毛挟箱《とりげはさみばこ》の行列見るに由《よし》なく、
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