漁《すなど》りの業《わざ》なるべし。百足山《むかでやま》昔に変らず、田原藤太《たわらとうた》の名と共にいつまでも稚《おさな》き耳に響きし事は忘れざるべし。湖上の景色見飽かざる間に彦根城いつしか後になり、胆吹山《いぶきやま》に綿雲這いて美濃路《みのじ》に入れば空は雨模様となる。大垣の商人らしき五十ばかりの男|頻《しき》りに大垣の近況を語り関《せき》が原《はら》の戦《いくさ》を説く。あたりようやく薄暗く工夫体《こうふてい》の男|甲走《かんばし》りたる声張り上げて歌い出せば商人の娘堪えかねてキヽと笑う。長良川《ながらがわ》木曽川いつの間にか越えて清洲と云うに、この次は名古屋よと身支度《みじたく》する間に電燈の蒼白き光曇れる空に映じ、はやさらばと一行に別れてプラットフォームに下り立つ。丸文《まるぶん》へと思いしが知らぬ家も興あるべしと停車場前の丸万と云うに入る。二階の一室狭けれども今宵《こよい》はゆるやかに寝るべしと思えば船中の窮屈さ蒸暑《むしあつ》さにくらべて中々に心安かり。浴後の茶漬も快く、窓によれば驟雨《しゅうう》沛然《はいぜん》としてトタン屋根を伝う点滴の音すゞしく、電燈の光地上にうつりて電車の往きかう音も騒がしからず。こうなれば宿帳つけに来し男の濡れ髪かき分けたるも涼しく、隣室にチリンと鳴るコップの音も涼しく、向うの室の欄干に倚《よ》りし女の白き浴衣《ゆかた》も涼しげなり。昨日よりの疲れ一時に洗い去られしようにてからだのび/\となる。手を拍《う》ちて床《とこ》をのべさせ横になれば新しき浴衣の肌さわりも快く、隣室の話声遠きように聞えし後は魂いずこへか飛んで藻ぬけの殻となり電燈消しに来し事もいつか知らず。円《まど》かなる夢百里の外に飛んで眼覚むれば有明の絹燈|蚊帳《かや》の外に朧《おぼろ》に、時計を見れば早や五時なり。手洗い口すゝぎなどするうち空ほの/″\と明けはなれたるが昨夜の雨の名残まだ晴れやらず、蚊帳をまくる風しめっぽきも心悪からず。膳に向かえば大野味噌汁。秋琴楼《しゅうきんろう》に仮寓《かぐう》の昔も思い出さしむ。勘定をすませ丸く肥え太りたる脊《せい》低き女に革鞄|提《さ》げさして停車場へ行く様、痩馬と牝豚の道行《みちゆき》とも見るべしと可笑《おか》し。この豚存外に心利きたる奴にて甲斐々々しく何かと世話しくれたり。間もなく駆け来る列車の一隅に座を構えて煙草取り
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