由。先ずとなせ小浪《こなみ》が道行姿《みちゆきすがた》心に浮ぶも可笑《おか》し。やゝ曇り初《そ》めし空に篁《たかむら》の色いよ/\深くして清く静かなる里のさまいとなつかしく、願わくば一度は此処《ここ》にしばらくの仮りの庵《いおり》を結んで篁の虫の声|小田《おだ》の蛙《かわず》の音にうき世の塵に汚《けが》れたる腸《はらわた》すゝがんなど思ううち汽車はいつしか上り坂にかゝりて両側の山迫り来る。山田の畔《あぜ》にしれい[#「しれい」に傍点]のごとき草花面白きは何と云うものにや。この辺りまで畑打つ男女|何処《どこ》となく悠長に京びたるなどもうれし。茶畑多くあり。春なれば茶摘みの様《さま》汽車の窓より眺めて白手拭の群にあばよ[#「あばよ」に傍点]などするも興あるべしなど思いける。大谷《おおたに》に着く。この上は逢坂《おうさか》なり。この名を聞きて思い出す昔の語り草はならぶるも管《くだ》なるべし。さねかずらとはどんなものかしらず、蔦《つた》這《は》いでる崖に清水したゝって線路脇の小溝に落つる音涼し。窓より首さしのべて行手を見るに隧道《ずいどう》眼前に※[#「穴かんむり+目」、第3水準1−89−50]然《ようぜん》として向うの口|銭《ぜに》のまわりほどに見ゆ。これを過ぐれば左に鳰《にお》の海《うみ》蒼くして漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]水色|縮緬《ちりめん》を延べたらんごとく、遠山|模糊《もこ》として水の果ても見えず。左に近く大津の町つらなりて、三井寺《みいでら》木立に見えかくれす。唐崎《からさき》はあの辺かなど思えど身地を踏みし事なければ堅田《かただ》も石山も粟津《あわづ》もすべて判らず。九つの歳《とし》父母に従うて東海道を下りし時こゝの水楼に※[#「魚+條」、第4水準2−93−74]魚《はや》の塩焼の骨と肉とが面白く離るゝを面白がりし事など思い出してはこの頃の吾なつかしく、父母の老い給いぬる今悲しかり。さては白湾子《はくわんし》と共に名古屋に遊びし帰途伊勢を経て雪夜こゝに一夜を明かせし淋しさなどもさま/″\偲ばる。草津の姥《うば》が餅《もち》も昔のなじみなれば求めんと思ううち汽車出でたれば果さず。瀬田《せた》の長橋《ながはし》渡る人稀に、蘆荻《ろてき》いたずらに風に戦《そよ》ぐを見る。江心白帆の一つ二つ。浅き汀《みぎわ》に簾様《すだれよう》のもの立て廻せるは
前へ 次へ
全11ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング