笛の止む間もなし。人来り人去っていつまでも待合の隅に居残るは吾等のみなるぞつまらなき。ようやく十二時となりて、プラットフォームに出でんとすればこの次のなりとてつきかえされし、重ね/\の失敗なりける。ようやくにして新橋行のに乗り込む。客車狭くして腰掛のうす汚きも我慢して座を占むれば窓外のもの動き出して新聞売の声後になる。右には未だ青き稲田を距《へだ》てて白砂青松の中に白堊の高楼|蜑《あま》の塩屋《しおや》に交じり、その上に一抹の海青く汽船の往復する見ゆ。左に従い来る山々|山骨《さんこつ》黄色く現われてまばらなる小松ちびけたり。中に兜《かぶと》の鉢を伏せたらんがごとき山見え隠れするを向いの商人|体《てい》の男に問う。何とか云いしも車の音に消されて判らず。再三問いかえせしも訛《なまり》の耳なれぬ故か終《つい》にわからず。気の毒にもあり可笑しくもあれば終にそのままに止みぬ。後にて聞けば甲山《かぶとやま》と云う由。あたりの山と著しく模様変れるはいずれ別に火山作用にて隆起せるなるべし。これのみは樹木黒く茂りたり。
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蝉なくや小松まばらに山|禿《はげ》たり
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など例の癖そろ/\出で来る。大阪にて海南学校出らしき黒袴《くろばかま》下り、乗客も増したり。幸いに天気あまり暑からざればさまでに苦しからず。山崎を過ぐれば与一兵衛《よいちべえ》の家はと聞けど知る人なし。勘平《かんぺい》らしき男も見えず、ただ隣りの男の眼付やゝ定九郎《さだくろう》らしきばかりなり。五十くらいの田舎女の櫛《くし》取り出して頻《しき》りに髪|梳《くしけず》るをどちらまでと問えば「京まで行くのでがんす。息子が来いと云いますのでなあ」と言葉つき不思議なるを、国はと問えば広島近在のものなる由。飾り気一点なきも樸訥《ぼくとつ》のさま気に入りてさま/″\話しなどするうち京都々々と呼ぶ車掌の声にあわたゞしく下りたるが群集の中にかくれたり。京に入りて息子とかの宿に行くまでの途中いさゝか覚束なく思わるゝは他人のいらぬ心配かは知らず。やがて稲荷《いなり》を過ぐ。伏見人形に思い出す事多く、祭り日の幟《のぼり》立並ぶ景色に松蕈《まつたけ》添えて画きし不折《ふせつ》の筆など胸に浮びぬ。山科《やましな》を過ぎて竹藪ばかりの里に入る。左手の小高き岡の向うに大石|内蔵助《くらのすけ》の住家今に残れる
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