《しろうと》の楽器を弄《ろう》するのは、云わば、楽譜の中から切れ切れの音を拾い出しては楽器にこすりつけ、たたきつけているようなもので、これは問題にならない。しかし相当な音楽家と云われる人の演奏でも、どうもただ楽器から美しい旋律や和絃を引出しているというだけの感じしかしない場合が多いようである。こういう演奏には、感心はしても、感動し酔わされる事はない。いつでも楽器というものの意識が離れ得ない。
ストウピンがセロを弾いているのを聞いており見ていると、いつの間にか楽器が消えてしまう。演奏者の胸の中に鳴っている音楽が、きわめて自由に何の障害もなく流れ出しているので、楽器はただほんの一つの窓のようなものに過ぎないのである。
五
ヴィオリンをやっていて、始めてセロを手にしてみると、楽器の大きさを感じるのはもちろんであるが、指頭に感じる絃の大きさ、指の開きの広さなどが、かなり不思議な心持を起させる。それで一と月二た月ヴィオリンを手にしないでいた後に、久し振りで取出して持ってみるとそれがいかにも小さくて軽くて、とてももとのヴィオリンだとは思われないのでちょっと驚かされる。一音
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