屋根を入れたスケッチを始めた。
すぐ眼の前の道路を通行する人は多いが、一人も私の絵など覗《のぞ》きに来るものはない。おそらくこの辺では私のような素人《しろうと》絵かきはあまりに珍しくなさ過ぎるのかもしれない。
そのうちに一人物腰などからかなりの老人らしく思われるのがやって来て、私の右にしゃがんでしばらく黙って見ていたが、やがてこんな問答がはじまった。
「しょうべえに描くのですか、娯楽のために描くのですか。」
「養生のためにやっています。」
「肖像などは、あれはずいぶんかかるものでしょうね。」
「さあ。一時間でも二十日でも、切りはありますまいね。」
「小さいのよりも、やっぱり大きい絵の方が、何だか知らねえが、ねうちがあるような気がするね。」
「そうですかね。」
どんな人であったか、つい一度もその人の方を振向いて見なかったから分らない。
電車や汽車が度々すぐうしろを通った。汽車が通ると地盤のはげしく振動するのが坐っている私のからだには特にひどく感ぜられた。
描いているうちにふいと妙な考えが浮んで来た。それは地震の波が地殻を伝播《でんぱ》する時に、陸地を通る時と海底を通る時とでその
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング