速度に少しの相違がある、そういう事実を説明すべき一つの理論の糸口のようなものであった。
とにかく一生懸命で絵を描いている途中でどうしてこんな考えが浮き上がって来たものか、自分でも到底分らない。
どうも自分というものが二人居て、絵を描いている自分のところへ、ひょっくりもう一人の自分が通りかかって、ちょうどさっきの老人のように話をしかけたのだという気がする。そうだとすると、まだ自分の知らない自分がどこかを歩いていていつひょっくり出くわすか分らないような気がする。
こんな他愛もない事を考えてみたりした。
三
眼を煩《わず》らって入院している人に何か適当な見舞の品はないかと考えてみた。両眼に繃帯をしているのだから、視覚に訴えるものは慰みにはならない。
しかし例えば香の好い花などはどんなものだろうと思った。
花屋の店先に立って色様々の美しい花を見ているうちにこんな事を考えた。
これほど美しいものを視る事の出来ない人に、香だけ嗅がせるのはあまりに残忍な所行である。
そう思ったので、つい花屋を通り過ぎてしまった。[#地から1字上げ](大正十一年八月『明星』)
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