ていた。やっと動き出したので手をはなすと、馬士《まご》一人の力ではやはり一寸《ちょっと》も動かない。「どうかもう少し願います。後生だから……」そう云って歎願しているが、さっきの人達はもう行ってしまって、それに代る助力者も急には出て来なかった。
 馬はと見ると電柱につながれてじっとして立っていた。すぐその前に水を入れた飼葉槽《かいばおけ》が置いてあるが、中の水は真黄色な泥水である。こんなきたない水を飲んだのだろうかと思うと厭な心持がした。馬の唇にはやはり血泡がたまっていた。
 私は平生アンチヴィヴィセクショニストなどという者に対して苦々しい感じを抱いている。また動物虐待防止という言葉からもあるあまり香ばしくない匂を感ずる。しかしこういう場合に出逢ってみるとやっぱり馬が可哀相になる。馬士も気の毒になってよさそうな訳だが、どうもこの場合馬の方に余計に心をひかれる。
 つまり馬の方は物を云わないからじゃないかと思う。

         二

 頭が悪くて仕事が出来なくなったから、絵具箱をさげて中野まで行った。
 鉄道線路脇のちょっとした雑木林の陰に草を折り敷いて、向うの丘陵に二軒つづいた赤瓦
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