十年たってドイツのエナでツァイスの工場を見学したとき、紫外線顕微鏡でこの同じ珪藻の見事な像を蛍光板の上に示されたとき、この幼い記憶が突然甦って来るのを感じたのであった。
十二、三歳の頃ひどくからだが弱くて両親に心配をかけた。そのためにその頃郷里でただ一人の東京帝国大学卒業医学士であったところの楠先生の御厄介になることになった。この先生はたいていいつも少し茶色がかった背広の洋服に金縁眼鏡で、そうしてまだ若いのに森|有礼《ありのり》かリンカーンのような髯《ひげ》を生やしていたような気がする。とにかくそれまでにかかった他の御医者様の概念とはよほどちがった近代的な西洋人風な感じのする国手であった。
父が話し好きであったからたいていの医師は来るとゆっくり腰を据えて話し込んでしまうのであったが、この楠先生もよくお愛想に出した葡萄酒の杯を銜《ふく》んだりして、耳新しい医学上の新学説などを聞かせてくれたような記憶がある。この人の話した色々の話の中で今でも覚えているのは、外科手術に対して臆病な人や剛胆な人の実例の話である。あるちょっとした腫物《はれもの》を切開しただけで脳貧血を起して卒倒し半日も起き
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